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2015「平和の夕べ」コンサート(マルタ・アルゲリッチ、広島交響楽団)で想うこと。

2015年、8月5日、マルタ・アルゲリッチ(ピアノ)と広島交響楽団が共演するクラッシックコンサートに行く。
広島に原爆が落とされて70年を迎える前日であった。
コンサート会場である広島文化学園HBGホールに隣接されているホテルでは、被爆者団体による講演会のようなものが開かれているようだ。
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「平和の夕べ」と名付けられたそれに、ほぼ満席に近いようだったが、二階席中央ぽっかり二列だけに誰も座っていないところがあった。まるで、あえてそうしている、と思わせる少し奇妙な空間だと思った。

演奏の合間に、原民喜の詩集「鎮魂歌」と、チャールズ・レズニーコフの詩集「ホロコースト」から抜粋された詩が朗読された。(朗読はアルゲリッチの娘、アニー・デュトアと小説家の平野啓一郎によるもの)

ガス室が混んでいる時、子どもは予めガソリンを撒いておいた薪の上に放り投げられたそうです。生きたまま焼かれるのです。
子どもたちの絶叫は、収容所のユダヤ人によって作られたオーケストラに大音量で演奏させて、消したそうです。
おまえは美しい女だから助けてやろう、その道を振り向かずにまっすぐ歩いていけとナチスの将校に言われ、数歩歩いたところで、女は銃で撃たれたそうです。背中から。

戦争とは狂気であり、虐殺とは狂気であり、狂気の中で悪魔になる人間がいる。その人には愛する家族がいて、ただ狂気という職務に忠実な、または大義に信奉した純粋な、何も特別な人間ではない人間だったかもしれない。或いは、狂気をゲームにすり替えたか、或いは、心を麻痺させて人を殺したのか。自分がそうはならないとは言い切れない。人間だから。
その一方でその犠牲になる人間がいる。
私はそのどちらにもなりたくない。
そんな残虐なことがあったなんて、と戦争を知らない私は衝撃を受け胸が痛くなるけれど、やはり知らなければいけないのだと思う。知り、学ぶことで平和への祈り、平和を求めてやまない思いは強くなるからだ。

私の席は二階の後ろの方だったが、そこからもアルゲリッチの強靭な、それでいて、それだからこそ、鍵盤を打つしなやかな手の動きが見て取れた。というより、そこだけがはっきりと見えた。実に不思議な体験だった。(左よりの席が幸いしたのだろうけど)
ここへたどりつくまでの音楽家の積み上げてきた人生までもが体現されたようなしらべであった。
二千人近くの聴衆のおそらくはそのほとんどが、それをみつめていたのではないか。
痛み、畏れ、素晴らしい音楽。感動。そして祈り。
祈りが無力だなんてそんなことは決して、決して、ないのです、と彼女のピアノから聴こえてくるようだった。

平和であれば音楽はこんなにも崇高で美しいのだ。

コンサートは終わり、明るくなったさきほどの奇妙な空間に、私には見えない誰か(命)が座っていたような気がした。
by soranosanngo | 2015-08-14 10:38 | 珊瑚の気まま日記 | Comments(0)