カテゴリ:ペーパームーン(恋愛小説)( 1 )

パーパームーン

 
d0253237_10225944.jpg

 その店は、そっけない古い5階建てビルの地下一階にあった。エレベーターはもちろんない。

 給料日がきて、すぐのデートはここが多い。
 看板メニュウの一週間煮込むというビーフシチュウは二人のお気に入りだった。ナイフとフォークで一応食べるが、お箸でも切れるくらいの柔らかさのお肉。たぶん歯がなくなっても、食べることが出来るだろう。

「ワリカンにしようよ」
 私の申し出に、彼はいつも笑って首をふる。

 二人で5000円というのは、彼のそう高くはないであろうサラリーを考えると、なんだか申し訳なくて、それでいて、そんなことに愛されているという変な理屈を無理やり当てはめて、心の中で小躍りする。
 小躍りする小人の住む部屋で女は愛を育てるものだ。
 女の愛は矛盾と幻影の二本柱から成り立っている。いや、もちろん、その柱は増えたり減ったりしながら、落ちてきそうな天井を無邪気に支えているのだ。

 階段の途中の踊り場に背の高い観葉植物がある。
 薄暗い場所から一生懸命背を伸ばしているようで、健気だ。

 良く見かける植物だが、名前はなんといっただろう。
 知ったところで、取るに足らないことではあるが。

 無垢の一枚板でできたドアはずしりと重い。
 体重を預けるように肩で押すと、やれやれといったかんじでそれは内側に開く。低く流れるジャズのBGMが出迎えてくれた。
 聞き覚えのあるメロディ。
 ペーパームーンだっけ。
 思い出したところで取るに足らないことだ。

 一見取るに足らないものが実は大切なものだったりすることがあるけれど。

 機嫌よさげな静かなざわめき、そして食欲をそそる濃厚な香りが瞬時に混ざり合う。店の柱を舐めてみたら、きっと美味しいだろう。もう大人になってしまったので、出来ないのがちょっぴり残念。

 小学生のころ、校庭に大きないちょうの樹があって、友達とその樹の根を掘り起こして、かじりながら下校した。ほのかに香ばしい味がしたっけ。「ニッキだよ」とその友達は言った。そうか、ニッキというのか。あの時、ニッキは樹の根という概念が、私の中に植えつけられた。

 今考えてみると、いちょうの樹の根がニッキなんて奇妙なことだ。いちょうではなかったのだろうか。あの校庭にはまだニッキが埋まっているのだろうか。確かめる術はない。 幾度も繰り返した転校のせいで、一体どの小学校だったのか、ぼやけてしまっている。名前も住所も分からないでは探せないではないか。

 ニッキがシナモンと同義語と知ったのは、つい最近、シナモンティーを飲んだときだった。こんな風に神様は誕生日でもないのにプレゼントをくれることがある。いつか名前も住所もわからない場所も教えてくれるかもしれない。

 彼は、私より、きっかり、たぶん、10分前に着いていて、奥のボックス席で、いつものようにハヤカワ・ミステリの文庫本を読んでいた。

 私が「待った?」 と言って彼の正面の椅子に腰をかけると「さっき来たところ」 と答えるのはいつも通りのこと。

「さっき」の概念は10分より長くても短くてもいけない。

 秩序を重んじる公務員か。
 いや、勤続5年のしごくまっとうなサラリーマンである。
<改ページ>
 私達はいつも決められたとおりにドアを開け、決められたようにそこで遊び、満たされ、そして決められたように別れていく、ただそれだけのことに5000円を払う。
それが高いのか安いのか…。価値がなくなったら、ドアを開けなければいい。

「今日、電車の中で、ハイヒールに足を踏まれてさ、もしかしたら、小指が折れているかもしれない」彼がそう言えば私は有能な看護婦になる。

 一緒に見た映画の話題になれば、私はスクリーンになって映画を再現してみせる。

 彼が嫌いな付け合せの人参のグラッセを、私の皿に潜り込ませたら、私は物分りの良い母親になる。
 彼がいまだ要求しない役は、たったひとつだ。それは婚約者。


 なぜそれを彼は要求しないのか。
 そして私はその役を望んでいるのか。

 次の章の大事なシナリオがそこにあるのに、二人はあえて、それを読むことをせず、いつのまにか、三年が経ってしまった。
 あと三年経ったら、私は三十歳になる。

 たぶん、私は怖いのだ。次の章が、突然、最終章になってしまうのではないかと。

 考えてみると、配役を決めるのはいつも彼だった。私はその役を演じるのが愛だと思ってきたけれど、本当にそうなのだろうか。役を降りたら、残っているのは、本当の自分だけ。本当の自分って…。

 舞台裏で、化粧を落としてみたら、素の自分になれるのだろうか。

「転勤の辞令が下りたんだ」
「えっどこ?」
「大阪」
「大阪か…遠いね」
「遠くないよ。東京から新幹線であっという間さ」
「…そう、だね。マフラーが一本編めるくらいだね」

 月に一本、一年で12本。私の愛をむりやり押し付けられて、苦笑している彼が目に浮かぶ。そのうち、クローゼットの中をマフラーで一杯にしてしまおう。

 やっぱり大阪は遠いよ。
 遠距離恋愛の女、うまく演じられるかなあ……。

 ビーフシチュウはいつもより、味が濃かった。煮詰めすぎじゃないの?


 ビーフシチュウの皿がさげられ、デザートが運ばれてきた。今夜のケーキはガトーショコラだった。

「人参のグラッセは食べないくせに、ケーキは好きなんだね」
「ああ、甘いデザートはいいけど、甘い食事はちょっとね」
「じゃあ、お正月の黒豆や栗きんとんは?」
「デザートだって言われれば食べるけど。食事と言われたら食べないだろうなあ」
「…へりくつ。私なんて小さい頃甘い黄粉を白いご飯の上に振り掛けて食べてたんだから」
 それを聞いて彼は顔だけで「うえっ」と言った。いや、いや、あれはあれで美味しいんだから。けれど、やっぱり食事というよりデザートに近いかなあ。へりくつにも、一分の理屈あり。

「俺なら黄粉より、マヨネーズかなあ」
「マヨネーズはサラダじゃないの?」
「ライスサラダという手もある」

 コーヒーを飲みながら、ご飯に合いそうなとんでもないトッピングをいろいろ考えて、笑いあった。へりくつの効用…笑い。
 けれどやっぱり、黄金のトッピングは「めんたいこ」もしくは「納豆」という考えに落ち着いた。へりくつは嫌いじゃないけど、正しい概念の上はやはり落ち着く。

 コーヒーを飲み干し、キャメルのコートを着る。彼はオフホワイトのバーバリーのシングルのコート。おととしのボーナスで買ったらしい。そういえば、今夜のネクタイは去年のクリスマスに私があげたものだった。紺地に白い小さなドット(水玉)柄のネクタイは、へりくつが好きな人によく似合う。

 彼が会計する。
 いつ見てもここのウエイトレスのエプロンはラブリーだ。
「不思議の国のアリス」がしてるような、フリルが付いてる白いエプロン。可愛すぎて私にはたぶん似合わない。けれど一度くらいは着てみたい。似合うか、似合わないかを決めるのは、そう、唯一人だけ。
 レジ横の籐のトレイの中からキャンディをふたつ選んだ。包み紙を破り、口に放り込んだらミントの味が広がった。もうひとつを彼に渡そうとしたら「いらない」というので、私は仕方なくコートのポケットに入れた。

 店の外に出ると思いのほか寒かった。
 階段の上の四角い空に白い満月が浮かんでいた。
 あれは本当に月?奥行きのない絵に浮かぶ紙で作ったぺらぺらの月ではないだろうか。そもそも月になんて行ったことのない人間がそれが球であることを信じていること自体、紙のように心もとない概念だ。
 私は急に確かめたくなって、階段を駆けあがった。そして踊り場にいた彼の背中に抱きついた。

「連れてって」
「連れてって、いいの?」
「連れてってほしい」
「じゃあ、連れてく」

 あんまり簡単に言うから拍子抜けしてしまった。人生の扉は押さなければ開かない。押すか押さないかは、ほんのささいなタイミングかもしれない。
 押してみたらあの店の重たい一枚板のドアより全然軽かったことに、やっぱり私は拍子抜けした。
 しばらくそうやって彼の心臓の鼓動を背中越しに聞いていた。心臓が動いているのを見ることはできないけれど、動いているのを感じることはできる。
 愛も同じ。見ることはできないけれど感じることはできる。愛は、あたたかい。
 そして月は、まあるい。愛しく想う気持ちは球体。
 完全なる球体ではなく、ほんの少しのいびつさを備えた球体。だから真っ直ぐには進まないのだ。
「ベンジャミンだね」
「えっ?」
「この観葉植物さ」
「アメリカ人?」
「かもね」
 名前が分かったところで、まさにそれは、とるに足らないものだけど、私はその健気な傍観者に心の中で「バイバイ」と言った。

 恋人たちの章は終わり、新しい章が始まった。
 私は新しい土地で、新しい苗字と新しい役を手に入れた。
 魚屋で「おくさん」と呼ばれ、公園で「おばちゃん、ボールとって」と少年に言われ、最初はどきっとしたものの、それにも大分慣れてきた。
 もう、「おじょうさん」にも「おねえさん」にも戻れない。
 そうそう「アリス」という名前も手に入れた。(その名前で私を呼ぶのはこの世でたった一人だけ。それもあのラブリーなエプロンをつけた時だけね)
 こんな風にして人は次の章で生きていくんだと思った。
d0253237_10301152.png


 あれから一年、今夜の月も白い満月。信じれば、紙の月だって、本当の月になる。
 そこに愛があると信じれば、それが見えないものであっても、本当の愛が語りかけてくる。(たぶん)

「おうい、いくぞ」

 彼が呼んでいる。今夜のディナーはお好み焼き。歩いて10分のところに、自宅の一部を改装したような美味しい店があるのだ。

 キャメルのコートを羽織り、外へ出た。ポケットの中に何かある。取り出してみると、キャンディだった。なんで、キャンディが?そうしてあの夜のことにたどり着いた。包み紙を破いて口に入れたら、ニッキの味が広がった。
 神様の悪戯も悪くない。
 急に可笑しくなって、くすくす一人で笑った。

「何かいいことでもありまっか?」
「うん、今夜は満月や。月のうさぎがえろうはっきり見えますなあ」

 覚えたての大阪弁はとりあえず使ってみたくなる。それは、覚えたての英語を使った時と同じ、くすぐったさを連れてきた。

彼がうさぎというのなら、月にはうさぎが住んでいるねん。
うさぎ王国、万歳!

 いつの日か、名前も住所も消えてしまっても、そこに月さえあったら、私は、たどりつけるだろう。
 彼がそばにいるかぎり。きっとね。
                                                 Fin
d0253237_10343035.jpg

[PR]
by soranosanngo | 2011-08-27 10:32 | ペーパームーン(恋愛小説) | Comments(2)