カテゴリ:珊瑚の気まま日記( 21 )

私が小説を投稿している「時空モノガタリ」という
小説コンテストサイトから
あさって28年12月10日に
「時空モノガタリ文学賞作品集♯零」という本が出版される。

2000字(原稿用紙5枚)以内の掌編小説が32篇。
気軽に読める短さの中に、濃縮されたモノガタリが読める本。
あれ、です。
趣向を凝らした一口で食べられるチョコが宝石箱みたいに入ってる
ゴディバの贈答用チョコ詰め合わせ、みたいな本です。
でもゴディバよりはお買い求めやすいお財布に優しいお値段かつ
虫歯になる心配はご無用!!

私の作品
「純文学と名付けた人をきっとこれからも知らずに生きていく」
「幻疼痛」も載せていただいた。

私が書くことに魅せられているのはおそらく
そこに生きている実感があるからだと思う。

紙の本を手にすれば、その重みを感じられる。
頁をめくれば、乾いた手触りがある。
モノガタリという時間に浸れば
世界も現実のしがらみもない時空が広がっている。
そこできっと生きている脳内実感を感じていただけるのでは?

そんな読書の愉しみを感じていただける本ではないかと思う。

同時に「パピプペポ川柳傑作選#零」も出版される。
こちらには入選した私の川柳と
パピプぺポをテーマに書いた私の小説
「海の青さとパピプぺポ」を載せていただいた。

冬の夜
コタツとみかんと
パピプぺポ   珊瑚

28年12月8日



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by soranosanngo | 2016-12-08 09:58 | 珊瑚の気まま日記 | Comments(0)

 弓道の防具で、右手にはめる革製のてぶくろみたいなものを「かけ」と呼ぶらしい。弦を引く際に、主に右手親指を保護するためのものであるとか。
 その革は子鹿のものであることが望ましいそうで、かけとなりうるのは、そのほんのいち部分、子鹿一頭でひとつのかけしか作れないときく。
 想像するに、戦国時代など、武器であった弓の的中率は自分の命を左右するものであったわけで、かけの善し悪しは重大な意味を持ったことだろうし、自分の手になじんだかけは、文字通り他替えのないほど大切であったことだろう。
「かけがえのない」という言葉の由来は、その「かけ」からきているという説も、うなづけてしまう。
 子鹿の命と引換えて作られた「かけ」は他に替えのないほど大切ということか。

 自分にとってかけがえのないものを考えてみる。なくなっては困るかもしれないけれど、あきらめがついたり、しかたないと思いつつも替りになるものがありそうな場合がほとんどだ。そうやってなんとか折り合いをつけていくのが人生ともいえるかもしれない。まだ人生を始めたばかりの幼子でも、冬のくもった窓ガラスに今日描いた絵が、ほどなく消えてなくなるのを知る。がっかりするかもしれない。泣くかもしれない。今日の幼子にとって、それはかけがえのないもの、かもしれない。けれどまた明日も同じように、その小さな指で絵を描くという選択肢は残されている。

 生きている自分、という、自分なりの答えのようなものにたどりつく。
 自分の命は自分でしか生きられない。他の誰にも変わってはもらえないし、命がなくなってしまえば、替え、はない。
 あたりまえのようだけど、かけがえのない、は、目に見えないから忘れがちだ。
 かけがえのないほど大切な命、たとえば自分以外の命だって、永遠ではない。

 永遠ではない世界の中で、また新しい年が始まる。答えだと思っていた地点から、ふたたび問いが始まる。

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写真は山口県にある防府天満宮
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by soranosanngo | 2016-01-15 12:27 | 珊瑚の気まま日記 | Comments(0)

初めて短歌の詩誌を読んでみようと思ったのは、その表紙に「河野裕子の魅力」と書かれて、彼女の特集が組まれていたからだ。
私が短歌を作るようになった始めの頃、河野裕子さんという人を知った。

好きな短歌はたくさんありすぎて、でもやっぱり今はこれかなと思う。

「さびしいよ息子が大人になることもこんな青空の日にきつと出て行く」(河野裕子)

産まれてから同じ家で生きてきて、成長して独り立ちしてゆくことはよろこばしいことなのだろうけど、やっぱりストレートにさみしいことなのだろう。青空は祝福のイメージだけれど、見送る側にとってはさみしい明るさを含んでいる。
巣立ってゆくときの万感が胸にこみあげてきて、この句に触れると
私はいつも泣きたいような心持ちになってしまう。
実際のところ、息子はもうすぐ二十歳になるので、そんな日も遠からずと思う。

世の中には、すばらしい短歌がたくさんあるのだなあと感嘆する。
歌人の感性って、よく研がれた刃物みたいに、日常を切り取っているのだなあ、と。


最も印象深かった2句を書き留めておきたい。

「食卓をしずづけさとししづけさの光源におく桑の実のジャム」(渡辺松男)

実家にあった一本の桑の木を思い出した。それはおそらく母が実家から移植したものではないかと思う。
母の実家は群馬県で、今はもうやっていないが、昔は家業の副業として、養蚕をしていた。
蚕は桑の葉を食べて育つ。あんなにごわごわともそもそした葉を食べるなんて、と思うのだが
蚕が白い絹糸を吐き出すための秘密が隠されているのだろう。
桑の木を見て、母は何を思ったのだろうか。
桑の実は小さくてきれいな赤い色。そのジャムを食べたことはないが、苺のジャムなどとは違い、一般的ではないので、おそらく手作りのものだと想像できる。
そんなつつましやかなジャムを光源にした、食卓の静謐のあたたかさが伝わってくる。

「服を着ても少し震えているチワワどこへ行くのだろう旧姓は」(北山あさひ)

こんなふうに詠んでみてもいいんだって目からウロコかつ楽しい!!
結婚して20年、ほんとうに旧姓ってどこ行っちゃたんだろうって思う。

というわけでこんな句を今朝つくりました。一応、返歌みたいなかんじで。

「だれとも手をつながないでどこへゆくつもりなんだろう、いいえ、どこへも」(そらの珊瑚)



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by soranosanngo | 2015-10-22 12:07 | 珊瑚の気まま日記 | Comments(0)

部屋の中は、もうすでに冬だ。
(私は猫なのである)
ヒートテックはいうまでもなく、靴下の二重履きも加える。
高校生の娘が去年まで制服の下に着ていた、
ラムウールのカーディガンがちょうどよい暖かさだ。
高校はブレザーの下に着るセーターも
学校指定でなくてはならないので
私が着なくなれば、きっともう着ることもないものだ。

そういえば実家の母は、私が着なくなった中学校のジャージを
パジャマ代わりに着ていたことがあったっけ。

学生でいる時間は短い。
ジャージもセーターも、くたびれるにはそれはとても短くて、
あっという間にこどもたちは、卒業してしまう。

外へ出てみれば、秋のひだまりは暖かく、一枚脱いでもよいくらいだ。
まさに小春日和。
小春日和が秋を表す言葉だと知ったのは中学生のころだったろうか。
秋が見せる春は、暖かいけれど、それが冬へ向かっていることを想えば
小春という形容がぴったりくる。

家の中と外、どちらがほんとうの温度だろう。
きっとどちらも今、必要な温度なのだろう。
うちの犬の夏毛の下で、おそらく冬毛が準備を始めている。

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by soranosanngo | 2015-10-16 11:49 | 珊瑚の気まま日記 | Comments(0)

詩を書き始めて、5年ほど経っただろうか。
詩を書くもうひとりの私に、どこかささえられるようにして歩いてきた5年だったともいえる。

このたび、第11回「文芸思潮」現代詩賞の佳作をいただくことができました。

とても嬉しい出来事であり、評価してくださった方々にお礼申し上げます。

私以上のものはきっとこれからも書けないだろうけれど
息をするように、詩を書いていけたらいいなと思う。

それが嘘のようにあっけなく
しぼんでしまうことが約束されたスフレのようなものだとしても。

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それにしても左奥歯が痛い。この二日ばかりヨーグルトとバナナでしのいでいる。
あとはお粥だとか。
離乳食の詩が書けそう♪
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by soranosanngo | 2015-10-15 12:32 | 珊瑚の気まま日記 | Comments(0)

大阪文学フリマ、無事終わる。現地参加は初めてでしたが、ネットで知った方々が来てくださり、お会い出来たのも嬉しいことだった。何より、文芸を愛している人が年代を問わずちゃんといるんだなあと感じられたことも嬉しいことのひとつ。ご来場いただいたみなさま、ありがとうございました。
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大阪から帰宅すると、私が最近初めて応募してみた福岡県柳川市が主催する北原白秋の短歌の事務局から封筒が届いていた。
創作をやっている人ならば、公募に応募して自分の作品の評価というものを
知りたいと思う人は少なからずいるかもしれない。
そんな方に、なにかの参考になればと、まあ、ならないかもしれないが、記しておきたいと思う。

封筒の中に、印刷したなかなかしっかり製本された詠草集なるものがあった。出詠料千円かかったので、その費用だと思われる。
(参加作品には無記名で番号だけがふってある)
その中で自分がいいと思った作品5首の番号をハガキにて送り返し、
点数の高いものは互選の部にて選出されるシステムらしい。
もちろん選者の方が選ぶ賞もある。

今回391首の応募があって、それを丹念に読みほどくのは面白く、勉強になった。
そのなかで私がいいと思った作品をあげてみたい。(自作ではありません)

 【仰向けに道に落ちいる蝉よ蝉もう充分に楽しんだかい】

短歌の素養がない私にもすっと理解できるような平易な言葉で編まれていて、かつ味わい深い作品であると思う。

道のあちこちに死んだ蝉、もしくは死んでゆくであろう蝉が転がっている風景に、誰しも心当たりがあるのではないか。
この作品の蝉はおそらくその脚がじわじわとまだ動いているであろう蝉だろうと想像する。物体になる前の生き物へ、作者は何かを言わずにいられなかったのではないか、と。
たった一週間の命であるのに、大音量の声で生き抜いた小さな生き物へ「充分に楽しんだかい」と問いかける作者のそのまなざしは同時に、人間を含めた命ある者たちへの生への肯定であり賛歌であるのではないかと思う。「楽しむ」っていいよね。楽しまなきゃソンだ。問いかけの先になんの答えも用意されてないという点も、いい。この世にあふれる問いのそのほとんどに、答えなどないのかもしれない。
蝉の境遇にはおそらく差異はなく、その最期はすべからく行き倒れであるのに、その姿にあわれを感じないというのは、私にとっては発見だった。
人間だったら、こうはいかない。
死を提示させているのに、いい意味で軽さがあるのは、蝉の身体のほとんどが空洞で軽いということにも起因していそう。命は地球より重いと言われたりするが、その一方でたやすく消えてしまえる、はかない存在でもあるのではないか。
いずれにしても今際のきわでこんなふうに看取られる蝉は幸せ者だなあ。。

あっあと、「落ちいる」とは「息をひきとる」という意味でもあるらしい。現代ではあまり使われなくなった言葉の感があるが、そう古めかしい気がしない。簡単に使っているようでいて、なかなか出てこない言葉であるのではないか。

夏の終わり、道の途中でかがみこみ、蝉との対話をする人。
声高に平和を叫ばなくとも、これは平和な風景だ。
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by soranosanngo | 2015-09-27 10:16 | 珊瑚の気まま日記 | Comments(0)

大阪文学フリマに出ることになりました。
http://bunfree.net/?osaka_bun03
(ブース名は群青です)

手作り詩集(定価200円)「きれぎれ」製作中です。
お近くにお住まいの方、ご興味あります方、是非遊びにいらしてください!

表紙はこんなかんじ。
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もし欲しいと思われる方がいらっしゃいましたら、
送らせていただきますます!!
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by soranosanngo | 2015-09-12 15:48 | 珊瑚の気まま日記 | Comments(0)

ふと、なぜまつげは頭髪にように伸びていかないのだろうかという疑問が沸く。
すべての生き様にもし理由があるのなら、ほこりやゴミから瞳を守るためだけならある程度の長さで事足りるということなのだろうか。
瞳あってのまつげ。
いや、まつげあっての瞳なのかもしれない。
人間が二本足で歩く理由、しっぽを失った理由、産まれてそして死んでいく理由のほんとうは知らないけれど、それらはおそらく命につながっていることを思えば、とても愛おしい。

つけまつげはこのところ、ものすごい進化を遂げていて(ハロウィンには蜘蛛の巣模様とか)私はやらないけど、面白いなあと思う。
8月も今日で終わり。
昨晩から雨で、あんまりの肌寒さに、今日がまだ8月だったことに驚いてしまう。


 まつげに
 かつてマッチ三本載せてみせた
 少女は
 そこへ
 蒲萄をたわわに実らせました

 おとぎ話はむしろ
 完結してからにほうが
 真実だったりする

 まばたきのたびに
 転がり落ちた果実は
 粉々になって
 肌の上にふり
 つもる

 やがて季節が過ぎ
 流線型のつるだけが
 あっけなく
 女の瞳に取り残されたが
 戦火を逃れてたどりついた
 透明な箱から
 まっすぐに
 今
 私の中の私を見ている

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by soranosanngo | 2015-08-31 11:11 | 珊瑚の気まま日記 | Comments(0)

犬の鼻

酷い事件がまた起きた。
知らない街の知らない人のことではあるのに、被害者が中学生だということに、本当に悲しい。
生きるべき未来の時間をたくさん持っていたはずなのに。

容疑者の男は、原発の除染作業に従事していたと聞き、そのことがまるで砂をじゃりっと嚙んだような気分にさせた。
飲み込めない、言葉で言い表せないような気持ち。

社会における暗い真実の一端を垣間見て、その末端に自分もつながったような気持ち。

我が家の犬の鼻をふと見れば、乾いているようだ。犬は人間の言葉を持たない分、その鼻はわかりやすい健康のバロメーターになっている。
心なしか元気がないような気もする。
台風の風におびえているのかもしれない。
そんなとりとめのない一番身近な心配事が、なぜか心を軽くしてくれる。

おまえはどこにつながってるんだい。
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by soranosanngo | 2015-08-26 13:00 | 珊瑚の気まま日記 | Comments(0)

2015年、8月5日、マルタ・アルゲリッチ(ピアノ)と広島交響楽団が共演するクラッシックコンサートに行く。
広島に原爆が落とされて70年を迎える前日であった。
コンサート会場である広島文化学園HBGホールに隣接されているホテルでは、被爆者団体による講演会のようなものが開かれているようだ。
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「平和の夕べ」と名付けられたそれに、ほぼ満席に近いようだったが、二階席中央ぽっかり二列だけに誰も座っていないところがあった。まるで、あえてそうしている、と思わせる少し奇妙な空間だと思った。

演奏の合間に、原民喜の詩集「鎮魂歌」と、チャールズ・レズニーコフの詩集「ホロコースト」から抜粋された詩が朗読された。(朗読はアルゲリッチの娘、アニー・デュトアと小説家の平野啓一郎によるもの)

ガス室が混んでいる時、子どもは予めガソリンを撒いておいた薪の上に放り投げられたそうです。生きたまま焼かれるのです。
子どもたちの絶叫は、収容所のユダヤ人によって作られたオーケストラに大音量で演奏させて、消したそうです。
おまえは美しい女だから助けてやろう、その道を振り向かずにまっすぐ歩いていけとナチスの将校に言われ、数歩歩いたところで、女は銃で撃たれたそうです。背中から。

戦争とは狂気であり、虐殺とは狂気であり、狂気の中で悪魔になる人間がいる。その人には愛する家族がいて、ただ狂気という職務に忠実な、または大義に信奉した純粋な、何も特別な人間ではない人間だったかもしれない。或いは、狂気をゲームにすり替えたか、或いは、心を麻痺させて人を殺したのか。自分がそうはならないとは言い切れない。人間だから。
その一方でその犠牲になる人間がいる。
私はそのどちらにもなりたくない。
そんな残虐なことがあったなんて、と戦争を知らない私は衝撃を受け胸が痛くなるけれど、やはり知らなければいけないのだと思う。知り、学ぶことで平和への祈り、平和を求めてやまない思いは強くなるからだ。

私の席は二階の後ろの方だったが、そこからもアルゲリッチの強靭な、それでいて、それだからこそ、鍵盤を打つしなやかな手の動きが見て取れた。というより、そこだけがはっきりと見えた。実に不思議な体験だった。(左よりの席が幸いしたのだろうけど)
ここへたどりつくまでの音楽家の積み上げてきた人生までもが体現されたようなしらべであった。
二千人近くの聴衆のおそらくはそのほとんどが、それをみつめていたのではないか。
痛み、畏れ、素晴らしい音楽。感動。そして祈り。
祈りが無力だなんてそんなことは決して、決して、ないのです、と彼女のピアノから聴こえてくるようだった。

平和であれば音楽はこんなにも崇高で美しいのだ。

コンサートは終わり、明るくなったさきほどの奇妙な空間に、私には見えない誰か(命)が座っていたような気がした。
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by soranosanngo | 2015-08-14 10:38 | 珊瑚の気まま日記 | Comments(0)