カテゴリ:HIKARU果実【ルチアの物語】( 8 )

1 やっかいなふるさと

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         ※イラストはりつ屋(娘)のオリジナルです。

 ケータイの着信音で目が覚めたルチアは、それが母親からのコールであることを確かめて舌うちした。今日は昼まで溶けるように眠っていようと思っていたからだった。
 どんなに自堕落な生活をしようと、それをとやかく言う人もいない気楽な一人暮らしだった。

 実家を離れてもう十二年もたつというのに、母親はほぼ毎日のように電話をしてくる。
 ほとんどの電話の内容が、ペンネみたいに空洞であるように感じていた。忙しい時にはその中身のなさにいらいらする事は一度や二度ではなかった。

 ある時
「ねえ、ママ、電話は用がある時にかけるものじゃない?」
と皮肉を込めて聞いたルチアに、こともなく母親はこう言い放った。
「用はあるわ。あなたの声を聴くという用がね。で、今度いつ帰ってくるの?」
 今年三十才になる、世間でいうところの、「いい」年の女であろうと、母親にとっては、いつまでもかわいい娘であるのだろう。それはもちろん愛情からであるとわかってはいるのだが、週末の休みごとに電話をかけてきて呼び出されてはたまったものではない。
 
今日は体調が悪いと言って断ろうと決め、ケータイを開く。いいでしょう、とルチアはひとりごちる。体調が悪いのは全くの嘘ではないし。かといって病気でもないことはわかっていた。

「もしもし」
「……ルー、ルー」

 近しい人はルチアの事を皆親しみを込めてルーと呼ぶ。
いつもは陽気なオペラに出てくる女主人公のような母親のソプラノは、今朝はまったくもって陰気だった。まるで長雨でしおれている向日葵みたいに。
 実際電話の向こうの母親は、泣いているようだった。

「ど、どうしたの、ママ」
「あのね、あのね、死んじゃったの」
「えっ誰が?」

 私は朝から晩までオリーブ畑で汗を流している無口な父のことが頭に浮かび、まさか、と思いながらも心臓がどきりとした。
 無口な男とおしゃべりな女は最高のカップルなのよ、というのが母親のかねてからのゆるぎない哲学であった。それを聞かされる度、今だ独身のルチアは納得せざるを得なかった。実際自らがそれを証明しているというのは、強い説得力があるものなのだ。

「ううっザッフィーロが、ザッフィが死んじゃったの」

 その言葉にまず、ほっと安堵した。そのあとに、胸の深い処にあった思い出が、柔らかな悲しみのようなものと一緒にやってきた。

 ザッフィーロ、青い眼の美しい白猫。

 一人っ子だったルチアにとってザッフィーロは時に弟、時に友人、寒い夜には寝床を温めてくれるヒーターでもあった。

「ザッフイー……」

 心の中で呼びかけたら、思わず鼻の奥がつうんとしてきた。

 彼はもともとルチアが学校帰りに拾ってきた仔猫だった。
 サファイアみたいな眼だから、ザッフィーロ。
 あの時確か十才だったから、ザッフィーロは二十才、猫としてはかなり長生きしたことになる。

「猫が二十才まで生きたんだから、大往生だよね」
「それはそうだけど、死は悲しいものよ。ねえ、今日これからザッフィにお別れを言いに来れない」

 かくしてルチアは実家のあるティレ二ア海に浮かぶ小さな島を目指すことになった。

 玄関で最近買ったばかりのマロノブラニクの華奢な6センチのヒールのサンダルを手に取る。
 ルチアはこのすばらしくロマンティックなサンダルを一目見て虜になり、オータムセールまで待てなくて正価で買ってしまったのだった。安月給の彼女にしてはそれは珍しいことであった。 人生の中で一目ぼれは数多くしてきたが(物だけじゃなしに)それを自分の手に入れたことはとても少なかった。
 しかし思い直して、白いスニーカーを履いた。
 彼女の実家の家は、長い階段を登ったこのうえなく見晴らしの良い所に建っているのだ。
 スニーカーを選んだ理由は実はもうひとつあるのだが。

 ルチアが住むローマのテルミニ駅からナポリ中央駅まで電車で一時間十五分。ルチアは電車にの乗るといつも不思議な感覚に囚われる。電車それ自体は時速150キロくらいの速い速度で移動しているのに、中に乗っている人々はその速さをほとんど体感することなくのんびりと過ごしている。
 そこだけ何かに守られた特別な空間のような気がしていた。外の世界で起きている出来事の全てを、人は自覚できるわけではない。むしろ、自覚できることのほうが少ないのではないだろうか、と。
 ナポリ港から島まで高速船で四十分の旅のほとんどを、まどろみながら過ごした。
 スリに用心して、鞄は常時ひざの上に置いてはいたが。
 ここ、数日はいくら寝ても寝たりない。ルチアは自分が溶けかかったいちじくになったような気がしていた。溶けかかって甘いいちじく。幼い頃、当たり前のようにあった甘い風景だった。

 時折目覚めて船の窓から外を眺めると、そこには見慣れた深い青をたたえた海が、やはり当たり前のようにあり、なぜかほっとする気がしたのだった。
 港ではカモメたちが、にぎやかに歌をうたって出迎えてくれた。
「あんたたちはいつも景気が良さそうね」
 実際のところは、港の周りの建物は、潮風にさび付いてもそのまま何年もほったらかしみたいだったし、産業といえば、漁業と農業、それに観光くらいのものだった。


 白い石灰岩でできた道は山なりに続き、角度が上がるに従い、次第に息が切れてくる。
 家の白い扉を開けると、すっかり泣きはらした赤い眼の母がルチアを出迎えた。
 母親は事細かにザッフィーロの最期の日を語った。時折、思い出したように涙声になったものの、大音響で鼻をかみ終える頃には、いつものソプラノに戻っていた。

「そう、最期はあのいちじくの木の根元で冷たくなっていたのね。死んだ鳥をくわえて」」
「そうなの、ザッフィーロは最期までハンターだったのよ」
誇らしそうな口調で母親はそう言った。

 そのいちじくの木は、ルチアが生まれる前からこの家の庭にある大木で、たわわに実った実が地面に落ちる度に、鳥がそれをついばみにくる。
 その鳥をザッフィーロは狩りの対象にしていたのだった。
 意気揚々と獲物を口にくわえて家の中に帰ってくるザッフィーロに、何度驚かされたことだろうかと、ルチアは懐かしく思い出していた。死後硬直が進んで剥製のように固くなったザッフィーロを、腕に抱きながら、きっと彼の魂は今も鳥を狙って自由にいちじくの木の周りを飛び跳ねているのかもしれないと思った。

 そうだったら、ほんとにいいのに。

「最期の獲物は雀に似た小鳥だったわ」
 いつもザッフィーロの習性を迷惑がっていた母親が、また誇らしげにそう言った。
「じゃ、その小鳥も一緒にいちじくの木の根元に埋めてあげない?」
ルチアは幼い頃飼っていた亀や金魚が死んでしまった度に、そうやって弔ってきたことを思い出した。そのファミリーに今日からザッフィーロも加わることになるだろう。

「そういえば、甘い匂いがするわね。もしかして、いちじくのジャム作っていた?」
「まあ、よくわかったわね。いっぱい作ったから明日帰る時持って帰ってね」

 いちじくは花が咲かないと思っている人が多い。実は果実の中で花を咲かせるので、それが見えないだけなのだが。そのせいか子孫が絶えると言って忌み嫌う人も多い。
 
 ルチアはねっとりとしたこの果実は小さい頃からあまり好きではなかった。しかし母親の作るいちじくジャムは幼い頃から、大好物だった。完熟したいちじくはグラニュー糖と少々多めのレモン果汁で味付けされる。
 煮沸消毒された清潔なビンの中に入れられたつややかなルビー色のジャムは、見ているだけでも幸せな気持ちになったものだった。

「ママ、いちじく、今年もたくさん実ってるね」
「来年も再来年もきっと実るわ。そういうものよ。命って」

 その時ルチアは、自分の腹に宿っている小さな命を産もうと、甘い香りに包まれてそう決意した。
 恋人のアントニーに、そのことを告げたらなんて言うだろう。

 結婚しようと言ってくれたら最高だけれど、もしそうならなくても産んで育ててみたいと無謀にも思うルチアだった。
 この島に戻ってきてここで子育てしながら暮らしてもいいなあ……と。
 甘いかな? でも甘いのが好きなのはママ譲りよ。

 そう言えば、アントニーは無口な男だわ! ママ。
                    

 20年も生きた青い眼の飼い猫が、死んでしまったという母親の知らせをうけて、ルチアは実家のあるこの島に帰ってきていた。
 父親が農園から戻るのを待って(こんな日もオリーブ畑に行く父親のことを母親は非難めいた口調でまったくねえ、と言ったがそれに対して父親は何も言わず頭を掻いただけだった)ザッフィーロの弔いをした。
 あらかじめ探しておいた墓石(マーブル模様が入った美しい石)と、青い花をつけたセージの枝を供えて。

 いちじくの木の根元に、ザッフィーロの最期の狩りの証である小鳥を一緒に埋めたのだった。理由はわからないのだが、ザッフィーロはねずみより小鳥が好きだった。青い眼の猫は年老いても尚狩りをするのをやめなかったのだ。
 背を低くして、小鳥に近づいていくザッフィーロを度々見かけたが、その都度、彼はやはりハンター、小さな豹だと思った。
 最期までハンターであり続けたその猫のことを、あっぱれといわざるを得ない。
 狙われる小鳥にとってはまったくもって迷惑この上ないことであったのだが。
 
 改めて庭を見渡すと庭はハーブの類か、いちじくをはじめ食べられる実のなる木がほとんだということにルチアは気づいた。花はもちろん美しいが、実はそれ以上に素晴らしいものかもしれないと思う。ここにはそういうものが溢れているのだ。

 柔らかな秋の日差しが夫婦と娘に降り注いでいた。

 
 その夜は母親の作ったシンプルなトマトスパゲッティと採れたてのルッコラのサラダを食べた。どちらにもバージンオリーブオイルをたっぷりとかけて。 もちろんルチアの家の自家製であった。
 普段はファーストフードや出来合いのもので食事を済ますルチアだった。そしてそのことに対して、全く抵抗はなかったのに、やはり手をかけて作られた食事は、たとえそれがこんな風に見慣れたものであっても、心を豊かにしてくれるものだと感じていた。まだ5センチ足らずのお腹に宿った小さな命にも、きっと手作りのものがいいに決まっているのだろう。
 考えてみたら、手はいろいろな幸せを生み出す素かもしれない。
 父親の手からは、オリーブの実が。それが遠いジャポネで見も知らない人々を幸せにしている。
 母親の手からはこうして日々の食事が。時々はボビンレースを紡いで作った白いテーブルクロスが。
 ルチアは自分の手を眺めてみる。
 私の手は誰かを幸せにすることが出来るのだろうか。
 左手の薬指にいつか指輪をはめる日が来るのだろうか。

「ここ何年かはジャポネの会社がうちと契約してくれてるんだ。結構いい値で買い取ってくれるんで助かるよ……」
 遠い日本ではイタリア料理が流行っていて、それに乗じてオリーブオイルがブームになっているそうだ。
 父親が唯一饒舌になるのは、農園のことを話す時だった。
 ネジを繰り返し巻いて同じメロディを繰り返しているオルゴールみたいだったが、それを母親はさも嬉しそうに聞く。時々ルチアにウインクしながら。
 夫婦って面白い。
 いくら綺麗なメロディでも、毎日聴いていたら飽きそうなものなのに。

 農園のこととなると主導権をにぎる父親がパスタを口に入れるのを見て、すかざず母親が口をはさむ。絶妙なパス。セッターとアタッカーはこうして時々役割を入れ替えるのだ。

「今は農園も順調だけど、私たちが結婚した当時に、なんとかっていうオリーブの実を腐らせてしまう病気が流行って、ことごとく全滅だった年があったのよ」
「えっそうなの?ママ。初めて聞いたわ、その話」
「金銭的にも苦しかったけど、初めて身もごった子を流産してしまってね。あんな悲しかったことはなかったの」
「ふうん、そんなことがあったのね。私に姉か兄が、もしかしたらいた、ってことね」
 流産。
 その言葉に少なからずルチアは衝撃を受けていた。
 なぜなら、自分の妊娠を知った時、心のどこかでそれを願ったからだ。

 アントニーはまだ学生だった。結婚してやっていけるのか、いやそれ以上に心配だったのが、アントニーの自分への愛情が果たしてそこまであるか、ということだった。

そんな風に思ったのはつい最近のことだった。

「悲しいっていうのは、もちろん、流産してしまったことでもあるんだけど……」
 
 母親の言葉はいつになくrit.(リタルダンド)になった。何か言いにくそうに。

「流産を知って、どこかほっとしてしまったの。貯金もない、あてにしていたオリーブも全滅、どうやって暮らしていこうか、という時だったから。そしてほっとした自分に愕然とした。このことはね、今でも日曜日ごとに教会で懺悔しているの」
母親の悲しみは30年以上もたっても、まるで昨日のことのように今も心にあるようだった。
「ママ、きっとその子は天使だったのよ。天使が生まれてくる前に親孝行しちゃったのよ」

 涙ぐむ母親にルチアはそう告げた。けれど自分のお腹に宿っている天使のことは言えなかった。
 ローマに帰ったらまず、恋人のアントニーに伝えよう。
 話はそれからだわ、ママ。

 翌日、朝食を食べてから、ルチアは高速船乗り場に向かった。本当は母親と出かけようとしていたのだったが、出がけに近くに住む母親の妹のマリアがやってきたのだ。
 マリアのおしゃべりは母親の上を行く。
「ルチア、帰ってたのね。まあ、すっかりきれいになって! ひとり? 誰かと一緒じゃないの?」
「いいえ、おばさま、一人よ。実はザッフィーロが……」
「知ってるわ。本当に残念だったわね。お悔やみ申し上げるわ」

 やっぱり、知っていた。この島の歩くスピーカーだわ。恐ろしいことにそんなスピーカーはこの島にはいくつもあるのだ。

「大変なのよ。昨晩ジョルジョじいさんがね、酔っ払って海に落ちて死んじゃったのよ」

 ジョルジョじいさんは小さな雑貨店をやっている赤ら顔の男だった。
 ルチアが小さい頃お使いにその店に行くと、昼間から酒の臭いをその身体から放っていたのを思い出す。
 アル中だったので、酔っ払って階段から落ちて怪我をして、頭を6針も縫った、だとか、酔っ払って飼い犬の尻尾を思い切り踏んで噛まれたとか、何にしてもジョルジョじいさんにまつわるニュースの頭には「酔っ払って」がついていたのだった。

「今度は本当に死んだの?」
 母親がマリアに懐疑的に聞いたのは、もっともなリアクションといえよう。

 ルチアはこうしていると午前中の高速船に間に合わなくなると思い、話の途中で一人、家を後にした。

 港近くのゆるやかに伸びる坂道で、後ろから自転車のベルの音と「ピイー」という指笛がしてルチアは振り返る。
「やっぱり僕のジェルソミーナ(ジャスミンの花)だ!」と言い、レオナルドが人なつこい笑みを浮かべて笑っていた。ルチアのことをジェルソミーナと恥ずかしげもなく呼ぶのはこの世で目の前にこの男だけだった。
 レオナルドはルチアの元カレ。この島で父親の後を継いで漁師をしている。去年結婚したのだが一年持たず、今はバツ1。

 二人は高校4年間で三度別れたり、くっついたりを繰り返していた。その理由の多くはレオナルドの浮気だった。
 ルチアがローマの大学へ行くためこの島を出てからそんな腐れ縁みたいなのにはピリオドがついたのだが。
「ひさしぶり。おまえんちの猫死んだんだってな」

 やはりこの島のスピーカーは侮れない。二人の別れた、くっついたということもきっと島人たちのスピーカーで流されていたことだろう。

 ルチアはそんなふるさとの狭さ、というか、人と人の近さというものが好きではなかった。元カノの家の猫が死のうが生きようがあんたに関係ないじゃないのさ、とつい言いたくなる。

 そうえいば、レオナルドもとびきりのおしゃべりだったっけ。あの頃胸をときめかせていた細面の顔にはすっかり肉がついて、おまけにひげまでついている。ああ。


「ちょっと港まで送っていってよ」
 自転車のかごに鞄を押し込みルチアは荷台に座る。
「おばさんの話が長くて。急いでくれる?」
 レオナルドの背中もあの頃より一回り大きくなったようだ。腕を回してレオナルドの腰に手を回す。何のどきどき感もないと思った。
「おまえ、胸が大きくなったんじゃねえ?」
 ルチアはばしりと背中をたたく。
「危ねえなあ」

 船の出港には自転車のおかげで間に合った。
「はいよ」鞄を渡すレオナルド。なんだかんだ言っても、優しい男だった。
「間に合っちゃったね」
「何それ、残念そうね」
「いや、間に合わなかったら、昼飯でも一緒にどうかな、って」
「デートに誘ってるつもり?」
 ルチアは、「4度目はないよ」と言おうとしたが、止めて「チャオ。送ってくれてありがとう」と言って別れた。
レオナルドは、どこがどうというわけではないが、元カノが綺麗になった気がして、まぶしそうに手を振った。
 
 堤防からはいつまでもレオナルドが大きく手を振ってるのが見えた。
 まるで永遠の別れを惜しむ恋人みたいに。それは滑稽なようで、やっかいなことに、美しい姿だと思った。
 だから、ふるさとってやっかいなのよ、ルチアはそうつぶやいた。
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by soranosanngo | 2012-05-03 17:09 | HIKARU果実【ルチアの物語】 | Comments(2)

 ルチアとアントニーはもともと美術大学の同級生だった。ルチアが初めてアントニーを見た時、石膏デッサンのモデルのようだと思った。何ひとつ欠点のない、黄金比を保ったような顔はいつまでも眺めていたいようだった。実際ルチアは大学でアントニーを見かける度に、魔法にかかったように見入ってしまった。石膏モデルにはない黒い髪、黒い瞳、赤い唇を見ることで、ようやく彼が生身の人間であると実感するほどであった。
 
 「美とはバランスだ」と言ったのは、イタリアのとある画家だった。
 その言葉を借りるなら、彼の外見は完璧な美を現わしていた。顔は今どきのテレビタレントのように小さく、体つきはほっそりしていたが適度に筋肉がつき、長身に比例して手足も長かった。首の後ろの真ん中にあるほくろさえ、神様が念入りに設計したのではないかと思われるほどだった。二人が親密になってから、そのほくろのことを、ルチアは「はずかしがりの星」と呼んでは、キスを捧げて戯れたものだった。
 
 アントニーはその不躾な視線を感じるつど、その先にあった女の子を意識せざるを得なかった。口を一文字にして、まるでにらんでいるみたいだったからだ。
「ねえ、君、僕の顔になんかついてる?」
もし、ナルシストの男がこう言ったら、鼻持ちならない台詞になってしまうが、アントニーは自分の美しさを自覚していなかったし、たとえ自覚してたとしても表面的な美しさというものをあまり重要視していなかった。

 それがきっかけとなって友達になり、ルチアの情熱に押されていつしか付き合うようになった。
 ルチアはアントニーと付き合うようになって、彼が自分の容貌にさして自信を持っていないことに驚く。何かにつけ「僕のどこが良かったの?」と聞くのだ。
「顔よ!」と答えると、大げさに肩をすくめ、「君、近眼?」とまじめに言葉が返ってくる。
 そんなアントニーの自分の美しさを自覚していないところや、買ったばかりの白シャツに油絵の具のしみをつけても全く気にしないところや、絵を描くこと以外のこと(アントニーは油絵を専攻していた)に対してあきれるぐらい無頓着な事を知って、ルチアはますます彼のことを好ましく思った。
 オープンテラスでデートしている時、どんなにかわいい娘が通ろうとアントニーは決して視線を泳がせない。そんな時ルチアは心の中でつぶやくのだった。元カレのレオナルドとはえらい違いだわ、と。

 ルチアは幸せなキャンパスライフを過ごした。たとえ、途中一年間アントニーが休学してインド・ネパールの旅に出てしまった時も、一抹のさみしさはあったものの、浮気の心配をすることがなかったし、実際アントニーは浮気をしなかった。
 それよりも世界で一番美しい男がどこにいようとちゃんとメールを返してくれることが嬉しかった。それがいつも返事ばかりということに気づいていたが、それが愛情の少なさとは思わないようにしていた。ルチアはそう欲張りではなかったし、現状に満足してた。
そう思うことがこの恋を長続きさせる最良の策だと、直感的に感じていたのかもしれない。
 アントニーが旅先から必ず持って帰るおみやげも、ありきたりのものではないこともルチアのロマンスを盛り上げた。どのおみやげにも、素敵なストーリーがついていたからだ。
 例を挙げると、ネパールの4千メートルを越えるような山の頂上にあった白い小石だとか、、シリアに行った時はかの地の女王ゼノビアも使っていたというオリーブ石鹸だとか、ラマの骨で作った横笛だとか(妙に哀しい音色だった)だった。
 ガンジス川のほとりで書いた夕焼けに私の姿も書いてある絵はアパートの玄関すぐに今も飾ってある。
 もっともアントニーは抽象画を得意としていたので、言われるまで、それが果たして人なのかどうかもわからないような絵であった。
 旅に出かける毎にカレの作品は抽象度は増した。旅でもらったインスピレーションがそれらを書かせてくれるとアントニーは信じていた。
 こうしたいきさつがあって、ルチアは一足先に大学を卒業し、社会人となった。
アントニーはそれからまた放浪の旅に出ることが何度かあって、大学院に進みながら、未だ大学に席を置いている。

ルチアの住むアパートは「ローマ庶民の街」とも言われ、古い教会など昔ながらの風景が残っている場所でもあるトラステヴェレ地区に位置していた。
 
 ここから勤め先である「バリオーニ画廊」までバスで約20分。ルチアは美術大学を卒業してから、自分の才能のなさを実感し、自分で描くことはしなくなっていた。画廊では受付兼ボスのアシスタントが主な仕事だったが、少なからず大学で学んできたことが役にたっていると自負していた。
 その証拠にオーナーのバリオーニさんは(なんかとてつもなく金持ちらしい。客も金持ちばかりだったので、金持ちばかりの中でルチアは浮かないように、いつも精一杯背伸びしていた)ルチアによく意見を聞いてくるのだ。
「若い人から見てこの作家はどう?」とか。
 そんな時ルチアはつい饒舌になり、あとでしゃべり過ぎたかな、と反省する。バリーオーニさんは聞き上手で、ルチアのおしゃべりが脱線していく様子も面白がっている節があった。
 そして話が一段落すると、「君ってほんとにチャーミングだね」とか「口紅の色、変えたんだね。すごくよく似合ってる」などと言ってはルチアの頬を赤くさせるのも忘れない。
 バリオーニさんは今年五十才。離婚歴は二度ほどときく。正式に籍を入れなかったのを含めると二度では足りないだろう。今は一応独身らしい。
 いつもボルサリーノの帽子を頭に載せている。またそれがよく似合っていた。バリオーニさんに言わせると、外で帽子をかぶらないのは、紳士であろうと努力をしない怠け者だそうだ。
 彼が怠け者でない証拠は他にもあって、たとえば五十才なのに、全然お腹が出ていない所とか(美食と加齢と体型のくずれは往々にして比例するのに、彼はジムで汗を流すことを一週間に一度の日課にしていた)好奇心旺盛で、今話題の映画の話から政治、経済の話までその知識は多岐に渡っていた。
 おまけに金持ちときている。これで女にモテないはずはない。

 最初の結婚で生まれた娘と息子が二人いる。娘はクラウディアといい、ちょうど今年十九歳になる。クラウディアという名前はバリオーニさんのお気に入りの女優さんから取った名前らしい。ルチアはリアルタイムでその女優のことは知らなかったが、偶然テレビで放映された「ブーべの恋人」という昔の映画に主演しているのを観て、その華やかな容姿に魅了された。
「黒曜石だわ」
その女優の大きな瞳が濡れたように光る度、ルチアはうっとりとそうつぶやいた。
 ルチアは美人のたぐいではなく、どちらかといえば、ファニーフェイスだったので、正統的な美しさに弱いのだ。男でも、女でも。ボスの娘もなんとなく、その女優に似ていなくもない。
 時々彼女は画廊に顔を出しては、パパと連れ立ってディナーに行ったりしているので(バリオーニさんは娘に大甘なので、おこずかいもたぷりとせしめていることだろう)ルチアも仲良くしていた。
 年中日焼けしていて、健康そうな闊達でグラマラスな娘で、ルチアと妙に気が合って、おしゃべりに花を咲かせることも度々だった。バリオーニさんはそんな二人を揶揄して「黒百合と白百合のかしまし娘」などと言って笑わせた。
 ルチアはいくら焼いても赤くなるばかりの自分の白い肌が昔は好きではなかったが、今はそれほどでもない。かっこいいマダムになれなくとも、私には愛して止まない美しい男がたった一人いる! そう思うからだった。
 イタリアの上流階級のマダムはよく手入れされたこんがりと焼けた美しい肌を、一種のステイタスと考えている。それは長い夏のバカンスを取ることができ、そこでたっぷりと太陽の魔法を使うことが許されている経済力の表れであるからだ。クラウディアもそんなマダムの仲間入りをいつかするのだろう。
 
 バリオーニさんは絵画が専門だったが、それだけでなく、例えば古代の遺跡から発掘される壷などの古美術に対しても深い知識と選択眼を持っていた。今、売りなのは、アユタヤ王朝時代のタイの仏像だった。
 そしていつか恋人のアントニーの絵をここで売ることが出来るといいなと秘かに夢見るのであった。もちろん、現代アートの抽象画も取り扱っていた。

アパートの周囲に、気の利いたレストランが多いのも気に入っている。何より気に入っているのは、窓からの眺め。ルチアの部屋は三階にあったので、窓からジャニコロの丘の緑が一面に見渡せる。
 住宅が密集していて、窓を開けたらすぐ隣の建物の壁が見える、ということが当たり前のここローマで、奇跡とは言わないまでも、それはとても貴重なことだった。難を言えば、エレベーターがないことくらいであろうか。
 
 もともとは恋人のアントニーが、この建物の二階に住んでいたのだったが、ルチアはそこからの景色が気に入って、空き部屋が出たら入りたいと不動産業者に予約していたのだった。
 実際に空き部屋が出たのは、それから一年後のことだったので、その時は長年片思いしていた恋が、ついに叶ったかのように嬉しかった。
 二階と三階では、景色のグレードは思った以上に違っていた。いつもは、感情をあまり表に出さないアントニーだったが、この時ばかりは、悔しがっていた。

 そのせいもあるのだろうか。それからちょくちょくルチアの部屋に泊まっていくようになったのだ。朝日に照らされ、ジャニコロの丘が次第に目覚めていく景色を、小鳥が果実をついばむようなキスを交わしながら、何度二人は見たことだろうか。

 そんな朝、ルチアはアントニーの愛情を確かめてみたくなる。それが、いちじくジャムほど甘くはなくとも。でもアントニーの「愛してる」は常に「たぶん」のしっぽが付いていた。
「愛してると思う、たぶん」
 アントニーの口にする言葉はいつもほんとうの言葉だった。
 嘘がつけない。
 だから、「愛していない」という言葉でなくて良かったと思うしかない。口先だけの愛の言葉より、よほどいい。たとえ「たぶん」が一抹の寂しさや不安をつれてきても、だ。
 人魚姫は魚にしっぽがとれて、声を失い、王子様の愛を手に入れたのだとしたら、「たぶん」のしっぽがいつかとれたら、アントニーの真実の愛を手に入れることができるかもしれない。
 その代償として、自分は何を差し出せるだろうか。
 けれどあの美しい童話は哀しい結末ではなかったか……。そう思ったら、今のままで十分だとルチアは思うのであった。


 自分の部屋のベッドに寝転びながら、ルチアはいつのまにか、うたた寝をしていたらしいことに気づいた。
 ――旅で疲れたのかな――
 既に暗くなっていた部屋の電気のスイッチを入れ、鞄の整理を始める、汚れ物は洗濯機へ。化粧ポーチは洗面台の棚へ。鞄の底には、母親の手作りのいちじくジャムの瓶がふたつ紙袋に入っていた。
 小さな備え付けの冷蔵庫(この部屋にある家具のほとんどは備え付けのものである)にいったんはいれたものの、明日まで待てないわと思い直し、パンケーキを焼いた。
 砂糖控えめにしたそれは、いちじくジャムにとても合っていて、お腹いっぱいになるまでルチアは堪能した。
 もしルチアの母親が今夜の娘のディナーを見たらきっとこういうだろう。
「あらあら、それはおやつよ。いつまでたっても子供ね」と。
母親というものは、いつまでも子供扱いしたい生き物なのだ。


 パネテリア・エンリコの朝は早い。
ここに限らず、この当たりのパン屋はどこでもAM6:00頃から営業している。
ルチアは開店と同時に飛び込んだ。
「ボンジョルノ!」
 笑顔で挨拶を交わし合う。パンの焼ける香ばしい匂いは自然と笑顔を連れてくる。すでに店内には常連さんが二人。それぞれミニチュアダックスフントとポメラニアンを連れていた。
 ここの店の量り売りのピッツアも美味しいのだが、今朝はフォカッチャを4枚買った。横に切れ込みを入れてサンドイッチをつくるつもりだ。半分はハムを挟んで、半分はいちじくのジャムで。
 2枚は自分で食べ、もう1セットはナフキンに包んで、アパートの階下に住むアントニーの住む部屋のドアノブにかけて置いた。
 たぶんアントニーはまだ寝ているだろう。
「あとで電話して!」とメッセージを書いたカードも一緒に入れておいた。ルチアはいつも大体こんな風にして朝食を届けている。(一緒に食べる時以外は)メッセージは「おはよう」だったり「今日は洗濯日和だよ」とかたった一言でも添えるのがルチアのやり方だった。
 携帯電話のメールは便利であるけれども、手から生み出される一枚のカードがくれる温かさと比べると味気ないと思う。母親のいちじくジャムのように、手から生み出されるものをルチアは信じていたかった。

 決心が変わらないうちに、アントニーに話してしまおう。
善は急げ。善、になればいいのだけど。
 今夜、話してみようとルチアは思った。二人の大切な未来について。
 「たぶん」が取れるのか、それとも……それを考えると、心臓が早鐘のように鳴る。
祈りにも似た気持ちで、ルチアは出勤していった。傍目にはいつもと同じようにサンドイッチを作る朝、けれど何かが変わる予感を秘めた朝であった。
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by soranosanngo | 2012-05-03 17:06 | HIKARU果実【ルチアの物語】 | Comments(0)

3 画廊のお仕事

 ルチアはいつも通りチャコールグレイのジャケットとセットアップのスカートで出勤した。インナーには襟ぐりの開いた白いカットソーを着て、首から胸にかけてのデコルテを美しく見せる小技も忘れない。

 『画廊コジモ・バリオーニ』に勤め出してから、洋服はほとんど黒やグレイのスーツで、デザインも極力シンプルなのものを心がけている。
 画廊で売っている品物を引き立てるために、従業員は地味なものを身につけるというのは常識である。
 その代わり、品質と仕立てにはこだわった。同じようなデザインであっても、ウエストの絞り具合やスカートの丈など、ちょっとした違いで、野暮ったくみえてしまう。流行はめまぐるしく変わる。

 靴も上質な皮のものを選ぶようにしていた。
 ルチアはイタリア人にしては足のサイズが小さいので、ナヴォナ広場に面した靴のマエストロが営む小さな工房でオーダーメイドする。靴は毎シーズン買い換えるお金がなかったので、定番のデザインにし、長く愛用する。
 客の金持ち達は、さりげなく靴を見る。くたびれた靴を履く画廊の従業員から、高額商品を買おうと思う人はいないだろう。
 なのでルチアはいつも靴が光るまで磨きあげた。
 これも業務の一環と思えば苦もないことだった。

 しかし、まだまだおしゃれも楽しい年頃。時には自分へのご褒美として、華やかなワンピースやマニノブラニクの華奢なサンダルを、たまに買って楽しんでいる。もちろん、アントニーとのデート用。
 でも一番着たいと思っているのは、白いウエディングドレスであるのだが、
それは自分が着たいだけではもちろん叶わない服だった。


 化粧は、薄くファンデーションを載せ、あとはベージュの口紅をひくくらいで済ます。
 薄化粧と見えるところがミソで、実はコンシーラーで出来始めたシミを隠すことが最近覚えたテクニックだ。
 20代前半までは、しみやシワなど『遠いいつかの事』だと思っていたが、30代に入ってから、鏡を見る度、それはそう遠くないのでは、と思うようになった。
 まだまだと、たかをくくっていたら、いつのもにか、背後から忍び寄っていたようである。
 ルチアの白い肌は、ほんの出来始めのしみも容赦なく浮き上がらせたし、目尻に笑った時にかすかなシワが出来るようになったのも自覚していた。
 イタリアのマダムの間では、しわやシミを年輪を重ねた女のステイタスだと、むしろ誇らしげに考える人が多かったが、ルチアはほんとにそうなのかしら、と思う。

 やはりできるだけ、若くありたいと思う。
 それはアントニーの愛を手に入れるためにも必要なものだと思えるのだ。

 人は何かを失う、その時になって初めて、失いゆくものの大切に気づき、なんとかして手放さなくて済む方法はないだろうかと、あれこれ悪あがきを画作するものでsる。
 おおかたを失ってしまえば、あきらめもつき、しみもシワも立派なアクセサリーになる。
 しかし、無造作に年を重ねるだけでは、輝くアクセサリーには成り得ない。シワにはコラーゲン入のクリームが必要だし、2週間に一度はヘアーサロンに予約を取る。
 それなりに努力とお金がかかるものなのだ。 
 マダムへの道は、そんな錬金術なみの魔法で、アクセサリーへと変わるのである。

 バス停で待つ間、ルチアはケータイを取り出しチェックしたが、いつも通り、母からのメールが一通きていただけだった。
 タバッキ(切符売り場)にいた、ジプシーの親子が近づいてきた。物乞をしするためなのは分かっていたが、ルチアがケータイから眼をそらすことはなかった。

 イタリアはよそからの移民を受け入れている国家だ。ルーマニアから移住してきたロマ人はジプシーと呼ばれ、専用移住地キャンプで生活するようになってはいるが、こうしてローマの街中に流れてくることは珍しくない。
 
 貧困、政治不安、民族紛争など様々な事情で他地域からも移民は多く、不法滞在者は増えるばかりだ。すり、かっぱらい、置き引きをはじめとした都市の治安悪化に少なからず影響しているといわれている。

 ローマと他民族の融合の歴史は長く、カエサルが活躍した紀元前、ローマ帝国の頃まで遡る。
 その頃、地中海沿岸を次々と支配しながら、属国となった民族をも同化させていったのだ。
 
 都会で生きていると、否が応でもこうした社会の底辺で生きる人を目にしないわけにはいかない。
 ルチアはショルダーバックを肩から斜めがけし、ファスナーがきちんとしまっているかを確認した。ローマで安全に生きていくための処世術である。

 母親は小さな女の子の手を引き、次々とバスを待っている人に近づいては、手を出している。
 
 あんな風にして、一日一体いくら稼げるというのか。
 
 恵んでもらったコインがシワ、しみのために使われることは、おそらくないだろうし、長くたらした黒い三つ編みがヘアーサロンでほどかれることもないだろう。
 もちろんルチアが勤める画廊に、客として訪れることも。
 ちょっと見には、あの母親はルチアより大分年上のように見えたが、実年齢はもしかしてルチアとどっこいどっこいかもしれない。
  
 あの女の子はちゃんとご飯を食べているのだろうか。
 誰からも笑いかけてもらうこともないまま、今日そして明日も、無関心な眼差しにさらされ、ぼろを纏ってさまよい続けるのだろうか。

 エゴイストだと思われてもいい。ルチアは自分の愛する人たちには、そんな生活を決して送らせたくないと思った。まだ、数ミリであろう命が宿るお腹に無意識に手をやった。

 銀のスプーンをくわえて生まれた人と、そうでない人を振り分けたカードとは。身の蓋もない言い方をすれば、そう生まれついた、としかいいようがない。そこに、からくりも、いかさまもない。そういう意味では運命は人々に等しく冷酷で平等である。
 『同じ空を見ているだけで皆家族である』みたいな、のどかな小さな島から出なかったら、ルチアはきっとこんな世の不条理を知るよしもなかったかもしれない。

―気づくまでの時間は、気づくために必要な時間ー
 
 余計なことを考えてしまったようだ。
 今朝はバスが来るのがいつもより遅い気がするのはなぜだろうか、と思う。

 それからさらに十分ほどしてから、オレンジ色のバスが、やってきた。イタリアのバスが時間通りに来たためしがない。
 何に対しても、おおらかな国民性の表れだろう。

 おおらかといえば聞こえはいいが、いい加減とも置き換えられる。それに慣れてしまえば、たかが五分、十分の遅れなど、長い人生において、ウインクする時間に等しいくらいにイタリア人は思っている。
 ウインクするのに、イライラしながらする人などいないのだ。いい加減に人生を楽しむ達人ともいえよう。

 画廊にはもう一人の従業員マリオが既に出勤していて、ギャラリーの奥のオフィスで、コーヒーのマグを片手にパソコンの画面を見ていた。


 マリオは紺地に細いピインストライプの入ったスタイリッシュなスーツに、今日は黒縁の眼鏡だった。極度の近眼でもある彼は、眼鏡のコレクションが趣味で、洋服によってそれを使い分けるのがこだわりなのである。
 
 ルチアに気づくと、まるで女子高生のように、顔のすぐ横で小刻みに手を振り「チャオー」と笑った。三十五才のおっさんなのに。
 でも、これはプライベート用。仕事用と使い分けることができる、器用な奴。いや、もしかしたら、眼鏡同様それが一種の彼のこだわりなのかもしれない。

「ちょっとぉ、ルチア。目の下にクマ出来てるんじゃない?」
「えっほんと?」
「それになんか、どんよりしてるし。もしかして、アレの日? それとも昨?はアントニーに寝かせてもらえなかったとか?」

 ふふふ、と意味深に笑った。

 ゲイであるマリオは、自分も中身は女だと思っているのでルチアに遠慮ないし、時々ものすごく勘が鋭いことがある。

「残念でした。両方、違うわよ」
 ルチアは鼻の上にシワをよせ、睨むふりをする。

「疲れたのかな。週末は実家に帰ってたの」
「あら、またぁ? 先月帰ったばかりじゃない」
「実はね、実家でずっと飼ってた猫が死んじゃって」
「んまあ。いくつだったの?」
「二十歳だったわ」
「ふうん、きっと可愛がられてたから、長生きしたのねぇ」

 マリオは涙ぐみそうになり、ハンカチを出してチンと鼻をかむ。

「なあに、バンビーノの事思い出しちゃったの? 相変わらず涙腺弱すぎ」
 マリオは自分で飼っている猫にバンビーノ(赤ちゃん)という名前を付けて、溺愛しているのだ。
「ごめんね、いつかはそんな日が来ると想像しただけで、だめだわ、アタシ」
 締めていた細身のネクタイの端で涙を拭いた。

「じゃあさ、好きになった人がまた猫アレルギーだったら、どうするの」
「わかりきったこと、聞かないでくれる? 私にとってはバンビーノが一番。彼氏が二番なんだから」

 マリオはそう言って肩を大仰にすぼめた。

「大体さ、アタシの事、愛してるなら、猫アレルギーなんて克服しろ、っつうの」
 マリオはこの間、それが原因で別れた男を思い出し、べーと舌を出してみせた。

 マリオは職場の三年ほど先輩であるが、最初は面食らったものの、今では女友達と錯覚するほど気の置けない仲で、いつもガールズトークに花が咲く。
 いや、女友達以上かもしれない。女友達に恋愛の悩みを相談するのは、ちっぽけなプライドが邪魔をする時があるが、彼に対しては、それがない。
 みっともないところを見せても、なんとも思わないから、不思議だ。
 
 しかし、今回の妊娠については、まずアントニーに言わなくてはと思い、珍しくマリオに秘密にしていた。
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by soranosanngo | 2012-05-03 17:04 | HIKARU果実【ルチアの物語】 | Comments(0)

4 オルフェウスの神話

「ボンジョルノ」
 ボスが出勤してきた。
「ボンジョルノ」
 二人も笑顔を返す。

「今日の午後、倉庫へ絵の持ち込みがあるんだ。ルチア、手伝って」

ボスのミスターバリオー二はローマ郊外に商品のための倉庫を持っている。倉庫といっても、古い別荘(ヴィラ)を改築したもので、実際宿泊もでき、そこで商談もする。ローマから、南東へ三十五km、プレスティーネ山脈の裾野にある小さな街にあった。

「オーケー。で、モノは?」

画廊には、いろんなルートをたどって、買ってほしいという持ち込みの絵が持ち込まれることがあるのだ。

「十九世紀の象徴主義の画家。ギスターユ・モローの油絵だという触れ込みだよ」

「モローですか。確か彼の描いた『オルフェウス』がパリのオルセー美術館にありますよね」

「ああ。モローはオルフェウスの神話に基づいて、いくつか作品を残しているんだが、驚くなよ、未発表の作品だということなんだ」

「それがフェイクでなかったら、すごいことになりますね」

「最初は、おおかた贋作だと思ったんだが」
 持ち込み作品は玉石混合である。有名な作家、つまり売れ筋の作家には贋作者がついていることが多い。
 有名な日本の贋作者タキカワは『黒田、安井、梅原にしても本場のコピーじゃないか。本場の本格派の精神まで写す俺のコピーの方が、はるかに価値がある』と少々乱暴な言葉を残している。
 贋作と知って買うコレクターも多く、それが市場として成り立っているところが不思議なところである。

ボスはマリオが煎れた、いや正確にはエスプレッソマシーンが煎れて、マリオがカップに注いだコーヒーを一気に飲んで、一息いれた。

「話を聞いたら、ひょっとしたら、ひょっとしてと思ったりしてね」

「話というのは?」

「その絵の所有者はリルケの遺族なんだ」

「リルケ……あの詩人のリルケ、ですか?」


「ああ、あの大詩人のリルケ、大詩人のリルケさ」
 ボスは顎を、親指と人差し指でV字を作るようにして撫でた。ミスターバリオーニのくせである。同様に同じことを二回繰り返して言う事も。
 それは、ボスが心底楽しがっている時に出るくせだということを、ルチアは今までの経験から知っていた。そしてそれを見るたび、ボスの事が前より身近に思えてくる。
 当のバリオーニ自身は全く気づいていないから、おかしい。
 今日はこれがダブルで来たとあっては、相当だと、ルチアは思った。
「でもどうしてリルケの遺族がその絵を持っていたんでしょうか」
「なんでも、リルケが当時リュクサンブール美術館にあった『オルフェウス』を観て、インスピレーションを受け、モローに詩を書いて送ったそうなんだ。その詩にいたく感動したモローは、お返しとして、リルケに絵を書いて贈った」
「それがその絵なんですね」
「リルケとモローは分野は違っても、お互いの才能を認め合っていたということだろう」
 「なんかロマンチック! 芸術のミューズは粋なことしますね。男と女だったら、恋が生まれていたに違いないわ」

 マルコが不満の声を上げる。
「あら、男と男だって、恋が始まることだってあるわ」
「確かに、それはわからんね。リルケは幼少時、女の子として育てられたそうだよ」
「へーさすが、ボスなんでも知ってるんですね」
「おだてても何にも出ないよ。おしゃべりついでに言えば、絵画にしても詩作にしても、芸術は精神世界を現すための手段に過ぎないと私は思ってるんだ」
「なんとなく、分かります。きっと音楽なんかもそうですよね。だから私たちはそれを見たり読んだり聴いたりした時、感動するということでしょう」
「それには、受け取る側のアンテナの精度を上げておかなきゃならない。いくら素晴らしい電波が発信されていても気づかなければ、ないも同じ。それが画商の大切な仕事のひとつであると僕は思ってる」

―気づくまでの時間は気づくための大切な時間ー

 パソコンの画面を見ていたマルコが口を開く。
「モローは1826に生まれ、1898年に没してます。リルケは1875年に生まれ、1926年に没しています。年表の上では矛盾しませんね。リュクサンブール美術館で二人が出会うことは可能だったということになります」


「グレイト! そうこなくっちゃ」
 ボスは小さく右手でガッツポーズをした。なんか子供みたい、と二十才以上も年上の男に思ったことがおかしくて、ルチアはこっそり笑いを噛み殺した。

「リルケの著作に、オルフェウスに関連した著作がありますね」
「おお、どんなんだ? マルコ、読んでくれよ」

パソコンの中に現れた美しき亡霊、もとい詩人の精神世界をマルコは芝居がかった口調で読み始める。


 
 私たちは 幾千年も続いてきたひとつの種族――母であり父たちであり
 未来の子によってますます充たされてゆき、
 のちの日にひとりの子が私たちを凌駕し、震撼させるだろう。

 私たち 限りなく敢行された者である私たちは、
 何という時間の持ち主なのだろう!
 そしてただ寡黙な死 彼だけが知っているのだ、私たちが何であるかを、
 そして彼が私たちに時を貸し与えるとき、何をいつも彼が得るかを。

      (田口義弘訳・「オルフォウスへのソネット」より)


 マルコの三流役者もどきの朗読を聞きながら(これが舞台のオーディションならたぶん落ちるであろう)詩人の言葉というのは、水彩画の絵の具のようだとルチアは思う。
 心のプールに優しく混ざり合う絵の具。芸術家の命は終わっても、作品は生きながらえて、多くの人とこうして出会う。
 もちろん、人によって取り出す絵の具の色は様々だろう。
 さしずめ、この詩はルチアのふるさとの島にある海の洞窟の色、宝石のようなコバルトブルーを思わせた。

「ブラボー」
 朗読を終えたマルコに、二人の観客からの賞賛と拍手。

 マルコは自分で読みながら、内心この詩のことはよく分からないと思った。
まあ、自分にとって、詩が必要になるのは、恋愛中だけだからなあと心の中で言い訳した。
<改ページ>

「この詩作は、タイトル通り、オルフェウスの神話がもとになっているみたいです」

「竪琴の名手であった美しい顔を持つオルフェウス。死んでしまった恋人を冥界から連れ出そうとするが、あと少しで現世というところで掟を破って、後ろを振り向いてしまう。あんまり静かなので、後ろから恋人がちゃんとついてきているのか、不安になったんだな。掟を破ってしまったんで、恋人は再び冥界へ去ってしまった」

「後ろを振り向いてしまったってなんだかわかるわ。恋愛中に不安になって、相手の気持ちを確かめたくなる気持ちみたい」

 ルチアの言葉にボスは
「ああ、僕もそれはよく思うよ。神も人間と同じ感情をもつものなんだよ」
 と言った。


「でもそれが恋愛の醍醐味じゃないでしょうか」
 いつになっても成就しない恋愛を繰り返してきたマルコの言葉に
「言うね。マルコ」
 ボスが茶化す。

「ええっと、最後は、壮絶ですね。体は八つ裂きにされるが、頭は歌 いながら海を漂い、レスボス島に流れ着いたという。こうしてオルフェウスは宇宙の万物の中にとどまりそこから今もなお歌っているのだ、とあります」


「うわっ頭部だけになっても、歌ってるの? 想像すると……ちょっとエグいわ」
「モローの描いた『オルフェウス』が見れるよ」
 マリオがマウスをクリックする。
画面に若い女が竪琴とオルフェウスの首をかかえている絵が浮かび上がる。
「この絵の正式なタイトルは『オルフェウスの首を運ぶトラキアの娘』。この女は冥界に去った妻ではないらしい」
「じゃあ、誰なのかしら」
女の表情を見ると、死んだ男の頭部を抱えているにもかかわらず、ずいぶんと穏やかだ。死体に向かって子守歌でも唄い出しそうな慈愛が感じられる。ルチアにある考えが浮かんだ。
「この女は、仮の姿よ!」
「誰の?」
「モロー。作者自身を投影させているんだわ」
「ふうん、モローは男だったけど、女でもあったってこと?」
 マルコは絵の中の娘になんだか親近感を覚えた。

「モローは生涯独身だったらしいしね」
「同性愛者であったかどうか、それはたいしたことじゃないと思うの。あくまで私の直感だけど。モローは肉体は滅んでも生み出した芸術は滅びないと信じていたんじゃないかしら? この絵の中でいとおしむように、オルフェウスの頭部を抱いているのはモロー自身よ。頭部はつまり芸術そのもの。モローは芸術の運び手ってことかな」
「同性愛者かどうかはたいしたことじゃないだって?」
マルコは不服そうな顔をした。
「僕にとっては大問題だよ」

「なんだか話が脱線してくわ」
 ずっと二人のやり取りを、にこやかに聞いていたボスが口を開いた。
「話のレールはまた敷き直すとして、なかなか興味深い見解だね、ルチア」
ボスが顎をなでるのを見て、自分が荒唐無稽な意見を言って、いつものようにまたボスを面白がらせたことを知った。
「すみません。直感で言い過ぎましたね」
「それが君のいい所さ。さあ、今日はその素晴らしい直感を思う存分働かせてくれ」
ルチアはこれから商談が行われるはずのローマ郊外の別荘兼倉庫へ行く前に、アントニーに電話した。
「もしもし、私」
「ああ、今電話しようと思ってたんだ。サンドウィッチ美味しかったよ」
「今日ね、会って話したいことがあったんだけど、仕事が入ったんで、遅くなるかもしれない。9時頃になるかもしれないけど今夜、行ってもいい?」
「オーケー。ピザでも買っておくよ」
―ピザでもつまんで話すようなことでもないんだけど、まあ、いいか。―


 それからルチアはボスの運転するシルバーのアルファロメオの助手席に乗り、ローマ郊外の倉庫兼別荘を目指した。

 糸杉の立ち並ぶ丘陵。
 緑の田園地帯。
 ぬけるような青い空で子羊のような雲が遊んでいる。
 額縁は限りなく透明。
 
 ルチアはここの風景、ここのいかにも新鮮そうな空気が、ふるさとの島の次に好きだと思う。
 ローマの方角には、大気汚染からくる、かすみのようなもやがかかっている。あそこでこんな風に深呼吸しようとは思わないわ、ルチアは肺に思い切り空気を送り込んだ。

 小さなチャペルが鐘を鳴らす。幸せなカップルがたった今、この地で誕生したようだ。


 途中昼食を摂るために、カジュアルなトラットリアに寄る。ここのオーナーシェフは日本人で、二人はその繊細な料理を堪能した。
 鹿肉のローストの皿には赤ワインソースが絵を描くように縁どられていた。ぴりりとした香辛料が舌を目覚めさせ、ほどよく食欲を刺激してくれる。日本のワサビという植物らしい。
 デザートのティラミスはこれまた日本の食材のトーフを使ったもので、さっぱりとした食後感はくせになる味で、ルチアはおかわりまでしてしまったほどだ。
 ひとつひとつの皿を美味しそうに平らげていく、若い女の食べっぷりはなんてチャーミングなんだとバリオーニは思う。
 最近老眼気味なのか、パソコンの字はぼやけるし、今日みたいにドライブしたあとは、眼がとても疲れる。老化を実感するからこそ、ルチアの若さがよけいに眩しく思えた。
 今日の商談もきっといい成果になるに違いない、根拠のない予感を感じていた。

 窓からたわわに実った大きなレモンの木が見えた。
「そういえば、モローのオルフェウスの絵の左下にもレモンの木が描かれてましたよね」
「ああ。レモンイエローの実があったね。きっと何かの象徴として描いたんだろう」
「レモンといえば、瑞々しさの象徴という気がするけれど」
 ルチアのふるさとの島にもレモンの木はたくさん植わっていた。
「オルフェウスの首も死んだとは思われないほどの瑞々しさだったよ」
 ルチアはまだ青いあのレモンを、かじってみたい衝動にかられた。
「再生への祈り……といったところでしょうか」
 がぶりと噛んだら、きっと目が覚めるほどの酸っぱさだろう、そう思うと唾液がたまってくるのがわかる。
「絵の右下に描かれていた亀も、同じ意味を持つものかもしれないね」
 ルチアは先ほどパソコンの画面で観たモローの絵を思い出しながら、食後のコーヒーを飲み干した。
「レオナルドダヴィンチの『最後の晩餐』でも皿にレモンが載ってましたよね」
「最後の晩餐か。これで美味しいワインでも飲めたら、最後の昼メシにしてもいいくらいだよ」
「最後の昼メシのお相手が私なんかでいいんですか?」
「もちろん。これうえない幸せだよ」
 今日は運転しなければならないので、バリオーニはワインは飲まず、炭酸入りの水ペリエで我慢していた。

「ごちそうさまでした。こんなにリッチな昼食は久しぶりだったわ」
「たまには、いいだろう。美味しいものは元気をくれる。最近、ちょっと元気がなかったみたいだから、さ」
 今日マルコでなく、自分がアシスタントに選ばれたわけをルチアは理解した。そして、さりげないボスの思いやりに心から感謝した。

 別荘兼倉庫に着いたのはPM1:30を過ぎていた。

 門には指紋コードで開く仕組みの鍵が取り付けられ、警備会社のシステムも導入されている。
 高価な美術品を安全に保管するため、相当な維持費がかかるのは仕方ないことだ。

 玄関ホールを抜け、右手に商談用の部屋がある。ここはショールームも兼ねているので、そこかしこの壁に絵が飾られていた。
 ソファやテーブルなどの家具は現代的なシンプルなフォルムで、この家の持つアンティークで重厚なイメージと不思議に調和されていた。

 バリオーニはチェンバロの椅子に座って、鍵盤に指をあずける。この楽器は16世紀頃作られたもので、楽器のフロントとサイドには天使が描かれていた。
 チェンバロはピアノの祖先といわれている古い鍵盤楽器である。
「なんだか眠りを誘うメロディですね」
「それを聞いたらバッハが喜ぶだろう。これはゴルトベルク変奏曲と言って、不眠症になってしまった貴族のために、バッハが作曲したバロック音楽なんだ」
「じゃあ、お腹一杯の今聴くのは、危険ですね」
 その時、来訪者を告げるブザーが鳴った。

 ルチアが玄関ホールのドアを開けると、そこには帽子を胸のあたりに掲げた初老の紳士が立っていた。
 今日の商談の相手、リルケ家の代理人だと告げ、名前をヴェロネーゼと名乗った。
「よくおいでくださいました。どうぞ、お入り下さい。私はバリオーニ画廊のアシスタント、ルチア ファーゴと申します。社長のバリオーニのところに案内いたします」
「ありがとう。帽子をここにかけてもよろしいかな」
 ヴェロネーゼはバリオーニより大分年かさに見えたが、豊かな銀髪をたたえていた。
「お嬢さん、いえ、ファーゴさん、この美しい音は?」
「はい、チェンバロです。ボスが歓迎の気持ちを込めて今演奏いたしております」
「ほう、それは粋なことをなさいますな」
「不眠症になった方のためにバッハが作った曲でして」
「私がもし寝てしまったら、起こしてくださいますかな」
「不眠症でしたか?」
「ええ、筋金入りのね」

 ヴェロネーゼとにこやかに談笑しながら、ルチアはボスのいる部屋の扉をノックした。


 一通り自己紹介が済んだあと、チェンバロ談義に花が咲く。
「古い楽器というのは、味わい深いものがありますね」
「そうなんですよ。音は決してクリアではありません。下手をすると雑音と取りかねない音。それは若い楽器には決して出せない複雑で深みのある音。人間と同じだと思いませんか?」
「いやあ、全く同感です。ルックスも素晴らしい」
チェンバロのサイドに書かれた天使をヴェロネーゼがのぞき込む。

「絵画としても鑑賞に耐えうるものです。いかがですか? ご邸宅に一台」
「これは商品でしたか? ミスターバリオーニはなかなかの商売人ですな。なかなかのプレゼンテーションでした。考えておきます」
「是非。お安くしておきますよ」

安いと言っても、それ相応の値段が張る。ルチアが勤め出してから売れずに残っているチェンバロ。今日もこうして商談の手助けをしているかと思うと、なんだか健気だと思えてくる。
それから、おもむろにヴェロネーゼは持参した絵画の梱包を丁寧に紐解く。今日のメインイベントのモロー作という触れ込みの絵画であろう。
「これなのですが」
 中から八号サイズの比較的小さめの油絵が現れた。

バリオーニが白い手袋をつけ、その四角い客人を自分の手の中に出迎える。

その客人は無言で語りかけてくる。
決して饒舌ではない。
けれど無口でもなさそうだ。

湖底に眠るオルフェウスの首。
無数の藻のベッドに置かれている。
目は閉じられ、口は唄うかのようにかすかに開いている。
水がゆらめいて処々で光りさざめく。
闇と光。
死と生。

これは本物だ。それは直感であったが、ゆるぎのないものに思えた。

いいしれない感動がバリオーニの全身を包んでいた。

今、自分は受け取り手となり、そして運び手となる。
奇跡のような幸運に感謝し、胸の前で十字を描いた。

 右下にモローのサインがあるのを確かめると、バリオーニは絵の裏側を見た。額縁の裏板には、処々かすれて読みにくくはなっていたが、かろうじて読むことができた。

『我が親愛なる友リルケへ、「寡黙な死」をここに捧ぐ  モロー』

 とあった。

「寡黙な死―すなわち、オルフェウスのことですね」
「ああ、リルケのオルフェウスの詩にもそのフレーズが出てきたね」


ーそしてただ寡黙な死 彼だけが知っているのだ、私たちが何であるかを、
 そして彼が私たちに時を貸し与えるとき、何をいつも彼が得るかを。ー

 ルチアはバリオーニから絵を受け取ると、注意深く壁のフックにそれを掛け、遠目から再度眺めてみる。

「ボス、闇だと思っていた所に、かすかに模様が認められますが」
「近くで見ただけじゃわからなかったが、うん、あれは、亀のようだ」
 窓から降り注ぐ午後の日差しが、亀の絵をあぶり絵のように浮かび上がらせていた。

「近くだと気づかないこともあるんですね」
「真実というものは、往々にしてそういうものさ。真実を見極めるためには、少し離れたほうがいいこともあるね」
ルチアは、きっとそれは絵のことだけを指しているのではないと思った。
もしかして私は、アントニーに近づき過ぎているのかもしれない。もっと近づきたくて、妊娠したのかも。そこに真実の愛があると、都合良く考えていたのではないか。そんな考えがふと頭をよぎった。

「僕はこの絵は本物だと思う。ルチア、君の意見は?」
「私も同感です。絵のモチーフ、筆のタッチ、完成度、どれをとってもモロー作といって違和感がありません」
ボスはヴェロネーゼの方を向き直り、是非この絵を買い取らせてほしいと申し出た。
あとは値段交渉だけだと思ったら、ヴェロネーゼは意外な条件を提示してきた。

「リルケ家の条件は、この絵のことは公にしないでほしいということです。実はリルケ家の今の当主の事業があまりうまくいっておらず、つまり金のために絵を手放すということは、世間に知られたくないのです。このことが公になりますと、マスコミ連中も放っておかないでしょう」
「それでは、オークションなどには、かけられませんね」
「そうなのです。ミスターバリオーニ、そのあたりのことをなんとかご考慮いただきたいと思います」
美術品の蒐集家にはいろいろなタイプがいる。時季を見てそれを転売し、投機の対象として考える人もいる。バリオーニの客の中にはそういった考えの客のほうが多いといえよう。純粋にその作品に惚れ込み、それを手元におきたいという金持ちは少数派だ。
この絵の価値をわかってもらえ、かつその嗜好を満足させることができそうな客といったら……バリオーニは頭の中で顧客名簿をめくりながら、最終的に一人の名前にたどりついていた。ローマに本社があり、ヨーロッパ全土で事業展開している、ある大物企業のトップ、コンティ氏だった。

「わかりました。私の顧客にその条件でこの絵を買ってもらえるかどうか、是非交渉させて下さい」
「よろしくお願いします」

ヴェロネーゼはルチアと細かい書類のやりとりを済ませると、帰っていった。

バリオーニは久しぶりに大きな仕事をひとつやり終え、満足感にしばし浸った。
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by soranosanngo | 2012-05-03 16:58 | HIKARU果実【ルチアの物語】 | Comments(0)

5 ハーフムーン

 ルチアは約束通り、仕事が終わってアントニーを訪ねた。ドアを開けると、油絵の具の匂いが漂ってくる。
 壁という壁には作品の数々が立てかけてある。
 なじみの匂い、見慣れた風景。それが今夜はどこかよそよそしく感じるのはなぜだろう。
「夕食まだだろう。座ってて」
 アントニーがテーブルにピザとコーヒーを用意する。
 週末から会っていなかったので、それぞれあった出来事などを話しながら、遅い夕食が始まった。
「話たいことがあるって言ってたよね」
 アントニーの問いかけにうなずきながら、ルチアは思い切って妊娠のことを告げた。
アントニーの動きが止まる。二人の間の空気も固まったように感じ、息苦しくなってくる。とてつもなく長い時間が流れたような気がした。実際には四、五分といったところだろうが。
 沈黙を破ったのは、アントニーだった。
「それで、どうする」
 アントニーの言葉は氷のナイフのような冷たさで心にささってくる。まるでひとごとのようなその言葉に、ルチアに怒りを含んだ失望が押し寄せる。
「結婚して、なんて言わないわ。だけどこの子は産みたいと思ってる」
 プライドだけが、ようやくルチアを支えていた。
「正直に言うと、僕は子供は欲しくない。君の事は愛しているけれど」
 いつか雑誌に『薄い唇の男は、心も冷たい』って出てたなあと、ルチアはアントニーの薄い唇を見ながら思い出していた。
「どうして? まだ学生だから?」
「違う」
「じゃあ、どうして?」
 アントニーは嘘をつかない男だった。それがせめてもの慰めであるようにルチアには思えてきた。

「子供は、いつか邪魔になるから。邪魔になって捨てられた子供の気持ちは君には分からないだろうけど」
「あなたには分かるの?」
「ああ、僕は母親に捨てられたんだ。六才の時に」
 初めて聞くアントニーの過去だった。
「僕の母親は自分の夢を叶えるために、僕を捨てたんだよ」
「夢って?」
「女優の卵だったんだよ。でも僕が出来たせいで父親と結婚した。結局夢を諦めきれなくて、離婚してアメリカへ行ったよ。そしてハリウッドで成功した」
 アントニーが口にした女優の名前はルチアもよく知っていた。若いときはその美貌で、中年の今となっては、演技力を高く評価されている女優。
 そう言われてみれば、目元がアントニーに似ている。

 初めて知るアントニーの過去だった。両親そろった幸せな家庭で育ったルチアには、その辛さはわからないものかもしれない。経験したものにしかわからないとアントニーが考えるのは、たぶん本当だろう。
 けれどルチアは愛する人のその辛さに寄り添いたかった。わからなくとも、近くで感じてあげたかった。たとえそれが何の役にも立たなくとも。
 ルチアはアントニーの背後に回ってそっと背中を抱いた。少しウェーブのかかった黒髪からアントニーの匂いがする。油絵の具と体臭が混ざったような匂い。今日は今だ癒されていないアントニーの悲しみがそこから立ち上ってくるような気がしていた。
 ルチアは、なぜか今自分が抱いているアントニーが、幼い子供のように思えてくるのだった。そしてスクリーンの中でしか会ったことがない恋人の母親に、自分がなったような錯覚にとらわれた。
「私はアントニーのそばにずっといる。決してあなたを見捨てたりしないわ」
 アントニーが今自分のお腹の子を捨てようとしているのに、彼のことを責める気持ちにはなれないことが、自分のことながら不思議だった。

 
 唯一の愛がもしこの世に存在するのなら、ルチアはそれを手に入れたいと思った。
美しい花など咲かなくてもいい。世間の人に「幸せね」と祝福されなくともいい。自分の中だけでたったひとつ実をつけた、これこそを唯一の愛と呼びたかった。
 
 ルチアはふるさとのいちじくの実を思った。
 
 美しい花を咲かせずとも、実をつけるあの芳香な果物。

 幼い頃から慣れ親しんだあの実を、今、がむしゃらに食べてみたい。手も口もべたべたにして。
 そして残りはジャムにして、長い人生かけてあの甘い香りを楽しむのだ。


 何かを決断する時、人は二種類に分かれるものかもしれない。
 
 水中で重い石となる人と、軽い羽根となる人と。
 重い石となって水底に沈んだら、考える時間はたくさんあるけれど、下手をしたらずっとその水底から浮かび上がれない。アントニーのように。
 
 しかしルチアは軽やかな羽根だった。
 それは持って生まれた彼女のパーソナリティだったのだろう。そしてそれを育んだのは、あのエメラルドブルーに輝く海に囲まれたふるさとの島であったのかもしれない。

 その決断が軽はずみだと責めることは簡単だ。けれどそんなことはとるに足らないことだとルチアは思った。とるに足らないことがたとえ百あったって、大切なたったひとつに勝ることはない。

「アントニー、オルフェウスの神話って知ってる?」
「オルフェウス……ギリシャ神話に出てくる若者だったっけ。竪琴の名手の」
「そう。死んでしまった彼の恋人を黄泉の国から連れ帰ってくる途中、あともう少しで現世というところで、振り返ってしまうのよ。振り返ってはいけないという掟を破って。」
「恋人がちゃんとついてきているか心配だったんだね」
「たぶん。今日ね、そのオルフェウスの絵を仕事で見たのだけど、彼はあなたに似ている気がする」

夜も更けて、窓は闇を映していた。ジャニコロの丘も眠りに落ちて、少ないながらも星が瞬いている。ハーフムーンが白く浮かんでいる。

「アントニー、あなたは振り向く必要がないわ。だって私はいつもそばにいる。ずっと、ずっと。いいでしょう」
「子供はどうするんだ」
「私が育てるわ。あなたがパードレ(パパ)と呼ばれる自信がつくまで一人でだって大丈夫よ」
 今はまだハーフムーンが私にはちょうどいい。幸せが満月であるとしたら、半分くらいが居心地がいい。多少の強がりは、もちろんあるけれど。
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by soranosanngo | 2012-05-03 16:54 | HIKARU果実【ルチアの物語】 | Comments(0)

6 アントニーの旅

 そのままルチアはアントニーの腕のなかで、まどろみながら朝を迎えた。

 いつもと同じように朝が始まる。
 いつもと同じように空が色を取り戻す。
 けれど昨日とは大きく違う。

 人生には大きな分岐点があるものだが、ルチアは自分が新しい道を踏み出したような気がしていた。
 アントニーといえば、その分岐点で、右にも行けず、左にも行けず、昨日と同じ風に吹かれていた。
 柔らかな朝日が、アントニーの美しい顔の輪郭をぼやかせ、産毛を金色に染めていく。
なぜかルチアはいい知れぬ不安にかられ、両手でアントにーにの頬を包んだ。アントニーの白い彫刻のようなそれに、ルチアの手のひらの温もりが伝わり、次第に赤味がさしていく。
 大丈夫、アントニーは私の隣にいる、ルチアはそう実感したくて、その頬にキスをした。


『少し時間をくれ。一人になって考える。これからのこと。君のこと。二人のこと。そして生まれてくる子供のこと』

 数日後、そうメールを残してアントニーは旅に出た。
 彼はスケッチ旅行も兼ねて、定期的にふらりと旅に出るのが常だったので、ルチアはいつものことだと考えていた。
 まさかそれが永遠の別れになるなどと、その時は露ほども思いもしなかった。

 アントニーはエジプトへ旅立った。カイロ駅から寝台列車に乗り込み、明日の朝にはギザ駅に着く予定だ。
 列車が到着するまでまだ小一時間ある。アントニーは駅のホームのベンチに座り、スケッチブックと鉛筆を取り出した。何かの符号にしか見えないアラビア文字が、神聖な面持ちで、そこかしこにあふれている。
 ビジネスマンや観光客が忙しそうに行き交う駅の様子をスケッチし始めた。ざわざわとした雑踏のBGM、物売りの声、構内に響くアナウンス。
不意にルチアの声がしたような錯覚に囚われ、顔を上げた。しかし、目の前を通り過ぎる人々は見知らぬ人ばかりだった。

 気がふれた女の叫び声のような警笛を鳴らしながら、砂埃を身に纏った車体が駅に滑り込み、澱んだ空気を攪拌していく。
 アントニーは予約したB-10というコンパートメント(個室)のドアを開けた。予期せずそこには先客がいた。はっとして、改めて自分の切符に記載された番号を確認したが、間違っていない。
「すみません、ここは僕の部屋だと思うのですが」
 先客に切符を見せる。ずいぶんとお腹がせり出したエジプト人らしき妊婦だった。頭から青いベールをかぶっていた。三歳くらいだろう、小さな男の子も一緒である。
 具合が悪いのか、備え付けの長椅子に身体を横たえている。
 妊婦は鞄から自分の切符を取り出し、確認しているようだ。そしてのろのろと立ち上がると、小さな声で「ソーリー」と言うと出て行った。

 コンパートメントは狭かったが、小さな洗面台がついている。とりあえず手を洗おうとしたが、水はチョロチョロとしか出ない。エジプトでは水は貴重なものなのだろう。
 簡単な夕食がトレイに載せられ運ばれてきたあと、車掌が壁からベッドを引き出し、ベッドメイキングをしてくれた。
 旅の疲れもあってそこへ身を横たえると、電車の振動とガタンガタンというリズミカルな音を子守唄にして、アントニーはいつのまにか眠りに落ちていた。

 再び、現実に戻されたのは深夜2時を少し回った頃だった。
 誰かがコンパートメントのドアを叩いているのだ。
 何だよ、こんな夜中に……。
 しばらく放っておいたのだが、それは止みそうにない。
 仕方なくアントニーはベッドから降り、ドアの前で「誰? 何か用か?」と言った。返ってきた声はアラビア語のようだったので、その意味は分からなかったが、幼い子供の声だった。先ほどの男の子の顔が咄嗟に浮かぶ。
 ドアを開けると、やはりあの子供の姿があった。男の子は泣いているようだ。
 アントニーはかがんで「どうした?」と声をかけた。

 男の子はアントニーの手を引っぱり、隣のコンパートメントに連れていく。
 中には先ほどの妊婦が長椅子に横向きに寝ていた。時折苦しそうにうめき声を上げる。
 額から汗が滴り落ちている。
 もしかしてこれは陣痛ってやつじゃないだろうか……。
 内心どきどきしながら、アントニーは妊婦のそばへ行き、「大丈夫ですか?」と声をかけた。妊婦は一度うなずいたものの、再び苦悶の表情を浮かべる。
 アントニーは壁に備え付けられている電話を手にし、車掌室に連絡をとった。

 車掌が来るまでの間、アントニーはどうしたものかと、おろおろしつつも、妊婦の傍らに膝を折って、顔を寄せる。
 その手を握ると、汗ばんだ手のひらがぎゅっと握り返してきた。爪が手の甲に食い込む。
 痛みに耐えているその姿を見ていると、祈るような気持ちになってくる。
 次第に妊婦がルチアの顔と重なってきた。
 
 ルチア、君はこの苦しみに立ち向かってでも、子供を産むというのか。
 そして在りし日の自分の母親にも……。
 母親が痛みを乗り越えて、自分を産んでくれたんだと思った。

 長年蓄積されてきた母親への確執が、なぜかどうでもいいことのように思えてきた。命をつなぐことの奇跡、それを目の前にして、アントニーの中で何かが変わっていった。

 車掌は一度様子を見に来て、また出ていった。列車に医者がいないか、捜してくるということだった。
 アラビア語、英語で、急病人を知らせるアナウンスが遠慮がちに深夜の車内に流れる。 しばらくして車掌と連れ立って初老の白人男性が現れた。どうやら、幸いにして医者が見つかったらしい。
 アントニーは自分のコンパートメントに戻ろうとして、連れの小さな男の子が目に入った。
 いよいよ大きくなる母親のうめき声をどんなに不安な気持ちで聞いていることだろう。それを考えると、置いてはいけない気になって、朝まで自分が面倒をみると母親と車掌に告げて、男の子を連れて自分のコンパートメントに帰った。

 眠気が限界を超えていたのか、男の子は簡易寝台に寝かされると数分もしないうちに寝息を立て始めた。頬にうっすら涙の跡がある。幼い子にとっては長すぎる夜だったのだろう。

 コンパートメントの電気を消すと、窓の外の暗闇が不意に分断される。夜明けの光が水平線を薄紫色にふちどっていく。神の手を感じるような美しい風景だった。
───明けない夜はない……。
 自分の心にあった闇にも光が射すような気がした。そうすることで、冷え冷えとしていた心の奥処が温かさを取り戻していく。
 アントニーは何かに背中を押されるように、スケッチブックを取り出すと、刻一刻と変わっていく目の前の風景を、スケッチしだした。それはアントニーの心象風景ともいえる絵であった。
───この絵を描くための旅だったのかもしれない。
 最後のページに描いたのは、一人の妊婦だった。大きな腹を慈しむように手のひらで支えている。その顔はルチアにとてもよく似ていた。

 アントニーはそのスケッチの右下にこう記した。
 『愛』と。
 愛はいずれ変容するものかもしれない。永遠でないのも知っている。けれども今は鉛筆を握る指先まで、それがあふれ出てくるのを感じていた。
 
 夜明けと共に、新しい命が産み落とされた朝、アントニーは終着駅で爆発テロに巻き込まれ、あっけなく命を落とした。
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by soranosanngo | 2012-05-03 16:52 | HIKARU果実【ルチアの物語】 | Comments(0)

7 Gone With the Wind

 ルチアは窓辺に椅子を移動させ、座って夜空を眺めていた。お天気への杞憂は、存外取り越し苦労に終わりそうだった。一刻前には黒い雲が立ち込めて、小さな星々さえ隠していたが、華々しいファンファーレこそなかったものの、今、しずしずと荘厳な無音のレクイエムを響かせながら、舞台の幕が開こうとしている。
 突然吹き始めた強風が空の暗幕を翻し、今宵の主役をお目見えさせてくれたのだ。風というのは、偶然に、いたづらに、気ままに、例えれば行方知れずの家出人のようなものだが、時として、その消息をこんな風に知らせてくれるものだ。そして、知る。家出には、家出人の理由があったことを。戻るには、理由があることを。
 この世で起こる神羅万象は、誰かからのメッセージとしたら、それを読み取るに、現代人は忙しすぎる。
 【皆既月食】はそんな現代人の曇ってしまった共鳴器のスイッチを再び押してくれるもの。
 太陽、地球、月が今一直線に並び、天空の神話が始まる。
 最後の三日月が闇に溶けていくと、代わりに赤い月が登場した。心の底が、ざわざわと騒ぎ、肌がふつふつと泡立っていくのをルチアは感じていた。
 家出人は戻らないかもしれない。
 そんな考えが頭の中に浮かび、いい知れない不安に襲われていく。
 外は風がますます強くなったようだ。建てて付けの悪い窓枠をかたかたと鳴らしていくのは、そんな風。風。風。
 隙間風が、テーブルに灯した小さな蝋燭の最後の火に、口づけした瞬間、無情に命を消した。蝋燭の芯は自分がただの黒い残骸になったことにしばし気づかず、自分の中から白い煙【魂】が流れ出すのを、不思議そうにみつめているだけだった。

 胸の中のざわざわ感は、翌日になっても消えなかった。日中なんとか仕事をしていたものの、それは不吉な呪いのようにルチアを不安がらせ続けた。
 ようやくその正体を知ったのは、夜、自宅アパートでTVを見ていたときだった。ショートカットの中年の女のキャスターが、早口でnewsを読み上げる。彼女は、今朝エジプトのルクソール駅で自爆テロがあり、犠牲者が多数出たもよう、と二度繰り返した。
 14インチのTV画面が、犠牲者の名前のテロップを映し出していく。あたかも映画のエンドロールのように。いくつかのアルファベットが意味を持たない記号のように流れていく。その中のひとつにルチアは釘付けになる。
 【アントニー コンティ 死亡】
 まさか。いいえ、きっと同姓同名の人よ。アントニーも、コンティも、ありふれた名前じゃないの! 私のアントニーじゃないわ。自爆テロ! 死亡、ですって! ふざけないでよ。そんなの絶対信じない。
 そう思おうとすればするほど、その考えが子供騙しの気休めのように思えてくる。
 これは、現実に起きたことなのだと。ましてや映画のエンドロールでもないと。
 NO、NO、NOと叫ぶ心の声が、底の見えない谷に吸い込まれていく。木霊(こだま)さえも返ってこない暗い闇。
 ルチアはトイレに駆け込み、今しがた食べた夕食のピザをそっくり吐いた。胃の内容物がなくなっても、しばらく吐き続けた。最後は緑色のどろりとした液体が出てきた。胃液だろう。三流のホラー映画みたいじゃないか。アントニーとレンタルDVDで観たあのホラー映画。もうルチアには、そのタイトルさえ思い出す気力も残されてない。
 涙と鼻水が、とめどなく流れてきた。

 どのくらいたっただろう。白い便器にもたれ、伏せた顔をのろのろと上げる。ルチアはようやくつわりの嵐(初めてのことだったので、たぶんあれがつわりというものだろうと理解した)が去ったのを知り、洗面所へ立った。
「ひどい顔だわ」
鏡に映るのは、魔女の呪いで一瞬で年老いてしまった女か。先ほどのTVで観たテロップが、呪文のように、よみがえってくる。
 ルチアは勢い良く水道の蛇口をひねり、幾度も顔を洗った。
それからベッドに横たわり、携帯電話でアントニーに連絡してみたが、つながらなかった。「今どこ?」「連絡して」「大丈夫よね」短いセンテンスばかり、メールし続けた。しらじらと朝が明けようとする頃、腕も指もくたびれ果てて、ようやくルチアは目を閉じた。そのまま身じろぎもせず、アントニーからの返信を待った。長かった夜が終わろうとしている。けれどこのまま一睡もできないだろうとルチアは思った。

 翌日、家にいるのがいたたまれなくなり、ルチアは出勤した。履きなれたローファーなのに、踏み出す一歩一歩が、砂浜を歩いているような歩きづらさだった。心もとなく、ぐらつくような。
 花屋が並べる今朝仕入れてきたばかりの色とりどりの花。
 職場へ急ぐ人や車。
 クラクション。
 街にあふれる色や音さえも、モノクロームに沈んでいくような気がした。今朝もジプシー達がいる。いつもと変わらない朝。けれどルチアにとっては昨日の朝とはまるで世界が違うように感じた。

それから数日間を抜け出せない迷路でさまよっている気分だった。その迷路に突然終わりを連れてきたのは、一本の電話。待ちくたびれたアントニーからの。震えながら電話にに出ると、耳に飛び込んできたのはアントニーの声ではなかった。 
「私はアントニーの父親でダリオ コンティと言います。アントニーは、亡くなりました」
 その電話で、ルチアは一縷の望みも失った。
 過ぎ去ってみれば笑い話にしてしまえることは、人生にはいくつもある。けれど、ルチアにとって、この事実は、ゴール見えないの迷路よりもタチの悪い、絶望という暗闇を連れてきた。
  丁度画廊の事務所にボスと同僚のマリオがいた。ルチアは胸の中にこれ以上絶望を隠しておけなくて、二人に今しがたかかってきた電話のこと、恋人の死が現実になってしまったことを話した。
「ダリオ コンティだって!」
 ボスのバリオーニが叫ぶ。
 その名前はボスの大切な顧客であったのだ。先日も、あのモロー作のオルフェウスを題材にした絵を高額で買ってくれたばかりであった。
 どこかで聞いた名前だと思ったわ。まさか、アントニーの父親だったなんて。
 そういえばアントニーの家族のことはほとんど知らなかったと、今更ながら思い知らされたルチアだった。

 マリオはルチアの両肩を無言で抱きしめた。まるで壊れたガラス人形を抱くみたいにそっと。今どんな言葉をかけたらいいのか、ルチアの哀しみを癒すことができるのか、到底思いつかない気がする。
 ただ寄り添って、同僚かつ愛すべき女友達の、不運を呪い、ともに泣くことしかできなかった。
 それはボスのバリオーニにしても同様の想いである。
 ひとしきり三人で泣いた後だった。
「それでね、彼の子供を産もうと思ってる。いいえ、産むわ」
 マリオは鼻水をかんだハンカチをあやうく落としそうになる。
「えっえっ今なんて言ったの?」
「だから、彼の子供がいるのよ、ここに」
 二人は驚きのあまり、しばらく言葉を失った。
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by soranosanngo | 2012-05-03 16:49 | HIKARU果実【ルチアの物語】 | Comments(0)

 涙はなによりも即効性のある薬効成分を含んだ水なのかもしれない。その水は絶望をふやかし、新たな希望の芽を開かせる。

 ルチアは週末、ボスのバリオーニと共に、アントニーの実家に向かった。

 アントニーの父であるダリオ コンティには、ビジネスで何度か会っていたルチアだったが、こうして面と向かうと、アントニーの面影がそこかしこにあることを感じる。
 画廊の上客でしかなかった男が、悲しみを共有する、とても近しい存在に思えてくるのだった。
 「連絡が遅くなり申し訳なかったです。息子の遺体はエジプトで荼毘に付し、家族で密葬しました。家族といっても私と家内だけですが」
 アントニーの父親は、今は再婚しているらしい。アントニーにとっては継母にあたると思われる女性が隣に座っている。シンプルな黒いカシミアのセーターに黒いロングスカート、大玉の真珠といういでたちで、初老と思われたが、年相応の上品さを感じさせる美しい女性だった。

 ルチアは二人にお悔みの言葉を言ったあと、アントニーの子を宿していることを告げた。
「そうですか、あなたがアントニーの……。これはアントニーの遺品のスケッチブックなのですが、テロの爆風で荷物と一緒に吹き飛ばされて汚れてはいますが、中の絵は無事です」
コンティが差し出したそれは見覚えのあるライトブルーの表紙。
「見てもよろしいですか」
「どうぞ」
 ルチアは一枚一枚めくりながら、もうどんなに願っても触れることが叶わないアントニーの体温を感じることができたような気がしてくる。最後のページにきたところで、その手が止まった。それは自分の顔のようであったからだ。それもお腹が膨らんだ妊婦姿で。
「やはりそこに描かれているお嬢さんは、あなたですね。どこかで見たような気がしていたのです。まさか、バリオーニ画廊さんの従業員の方とは、思いもしませんでした」

スケッチブックの右下に「愛」という文字。その文字を見たとき、抑えていた感情が爆発した。愛なんてもうどうでもいい。なんで私を置いて死んじゃったの?アントニー、あなたさえいてくれたら、愛なんかなくったって良かったのに! 怒涛にように、また悲しみが押し寄せてくる。 
 ルチアの嗚咽が収まったころ、コンティが口を開いた。
「それで、ルチアさん、どうなさるおつもりですか?」
「アントニーは産んでくれとは言ってくれなかったけれど、産みたい、と思ってます」
「いいのですか? 正直驚いてます。アントニーの子供を、あなたが。それで産んでくださるという。神よ。ありがとうございます。ルチアさん、ありがとうございます」
 コンティは立ち上がってルチアを抱きしめた。
「感謝をしてもらう資格なんて私にはありません。アントニーは子供が出来たことに悩んでいました。それで旅に出たのではないかと思います。私と出会わなければ、アントニーは死なずに済んだ、かも、しれないのです」
 それを聞いたコンティは、ルチアに語りかけた。静かに、その眼差しには慈愛をたたえながら。

「それをいうのなら、私だって同じです。かつてアントニーの進路について美大に進むのは反対してましてね。それよりもいずれ私の会社を引き継ぐのにプラスになるような勉強をしてほしかったんです。今思えばただの親のエゴです。それゆえ、アントニーは美大に入学すると同時に家を出てしまった」
「いいえ、それだけが原因ではありませんわ。血の繋がっていない私のことをお母さんと呼ぶことが苦しかったのでしょう。アントニーは優しい子だったので、「お母さん」と呼んではくれましたが。アントニーが出ていったのはこの私にも責任の一端があるのです」
 今まで黙っていた継母が口を開く。

「ルチアさん、どうか自分を責めないで」
 どこでボタンをかけちがえられたんだろう。
 もう時間を遡って、ボタンをかけ直すことはできないのだ。だから人は苦しむ。もうこれ以上、この人たちを苦しめたくなくて、ルチアはうなずいた。自分を悪者にして現実から目をそむけるのは、止めよう。この現実は紛れもない現実なのだ。
 人は生きている限り、新しくボタンをかけることはできる。自分の思ったように。できるなら希望というボタンをかけていきたい。今は悲しみに打ちひしがれていても。

「事故だったんですよ。なぜあの子が死ななければならなかったのか、それは誰にもわかりません。ただ、そのスケッチブックに書かれたものを見て、アントニーは最後に幸せだったと思うことにしました。最後にあの子の心にあったのはあなたへの愛だったと。だからあなたには心からありがとうを言いたいのです」

 コンティの言葉にルチアの心は少しだけ軽くなった。
 帰り際、アントニーの継母がそっとルチアに手渡したのは、指輪だった。透明度の高い深い赤。それは代々このコンティ家に伝わるルビィの指輪ということだった。アントニーを産んだ母親が家を出るとき置いていったものらしい。
「もし良かったら、受け取っていただけませんか? そして子供が女の子だったら、いつかその子へ。男の子だったら、その子のお嫁さんへ、受け継いでもらえたら嬉しいです」

 ルチアは迷った末、結局それを受け取ることにした。代々受け継がれているものなんて自分には重すぎるような気がした。けれど子供を産むという決断だって充分重いものだ。これからはもっと重いものを受け入れていかなかればならないだろう。
 それの第一歩だと思って自分の指にはめた。ルチアの指には少しサイズが小さくてそれは薬指の第二関節で止まってしまった。
 思わず苦笑する。この指輪が似合うようになるまでは、きっとまだまだ時間がかかるのだろう。
 アントニーはそこからそう遠くない小高い丘に位置した墓地に眠っていた。真新しい墓石の横に、いちじくの木が立っていたのをルチアは見つけ、今度ここに来る時は、実がなる季節にしようと思った。その時には、アントニーに笑顔を見せられるかしら、と。

 数ヶ月のち、ルチアはふるさとの島に帰り、元気な男の子を産んだ。最初ルチアから事情を聞いた両親は慌てふためいて、娘の行く末を心配したが、今は生まれたての孫の可愛らしさに幸せを感じていた。そしてルチアは、今はまだわからないけれど、きっとアントニーに似て、美しい男に成長するだろうと確信していた。
「ハーイ、元気してまちたか? 」
「おい、マリオ、俺にも抱かせてくれよ。見てみろよ、この爪。なんて可愛いんだ」
 週末ごとに赤ん坊を訪ねては、生まれたばかりの赤ん坊を取り合っているバリオーニとマリオを見て、父母はもしかしたらどちらかが本当の父親ではないかと、多少の冗談まじりに聞いた。モト彼のレオナルドもしょっちゅう顔を出すので、その疑いをかけられているようだ。

 ルチアはそれを聞いて涙が出るほど笑った。
 「もう! 言ったでしょう。この子の父親は絵描きなの」
 その白いカンバスに新しい色を付けることはもうできないけれど、私にとって世界一素敵な絵描きよ。そして私はその運び手となる。
 バリオーニさんとマリオがこの子の父親ですって? ありえないわ。でも0パーセントってわけでもないかも? そう思ったら笑いが止まらなくなった。こんなに笑ったことなんて、久しぶりかもしれないと思う。アントニー、私なんとかやっていけそうよ。

 ルチアは朝食のパンにいちじくのジャムをたっぷりと塗る。
「どう? 甘い?」
母親が心配そうにのぞき込む。アントニーを失ってからこの方、ルチアは、原因不明の味覚異常となり、特に甘味を感じることができなくなっていた。精密検査をしても、舌や脳の機能に異常はみつからないのだ。
「ううん、だめだわ、ママ。でもね、このジャムが甘いことは、ちゃんと知っているわ、私」
 傍らのベビーベッドの中で眠りにつく、天使の寝顔をながめながら、ルチアは思った。
 人生の苦味はこれから先もきっと味わうことがあるだろう。甘いばかりが人生でない。もしかして甘さはほんの少ししか用意されてはいないのかもしれない。でもきっといつか甘さを取り戻してみせるわ、とつぶやいてみる。
 
「今年もいちじく、たくさん成るかしら?」
 窓からいちじくの木が見える。緑の葉が生い茂げる佇まいはルチアが小さい頃から見慣れてきたものだ。太陽の光りがその葉に反射し、眩しい。
 光りの果実。まるでそのひとつひとつが、かけがえのない宝石であるかのように。

Fine
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by soranosanngo | 2012-05-03 16:46 | HIKARU果実【ルチアの物語】 | Comments(2)