カテゴリ:時空モノガタリ(掌編小説)( 6 )

はねむうん


 中腹まで登ってきただろうか。さすがに女の脚にはこたえる急斜面であり、竜馬、おりょう、そして道案内の男、三人はしばし路の岩に腰をかけ、休憩をとっていた。
 
 それにしても今が盛りと小さな花々が無数に咲き誇る様は圧巻であった。薄桃色の海のようだと、肩で息をしながら、おりょうはおもわず見とれた。道案内の男が『きりしまつつじ』だと誇らしげに告げる。
「この景色はまことでありましょうか?」
 傍らで熱心に、ここ高千穂の峰の様子を書き記している竜馬に言った。
  
 竜馬と出会ってからというもの、思えばうねる嵐の海を小さな櫂を頼りに漕いできた日々であった。
 
 ふた月前、寺田屋で何者かに襲われ、夫竜馬は負傷した。それから静養も兼ねて二人は薩摩に渡る。塩浸(しおびたし)の湯で長逗留したかいもあり、だいぶん傷も癒えてきたのだった。
 高千穂の峰は、そんなおりょうの胸のうちを知ってか知らずか、今日は穏やかだった。時折そよそよと微風が頬を撫でていくだけである。
 
 竜馬は、左腕に深い刀傷を負って、意識が朦朧をするなかで
「心配いらんぜ」
 と言った。
 おりょうは気性の強い女である。女だてらにやくざものに啖呵を切ったこともある。妹が借金のかたに女郎に売られそうになった時だ。
 ともかく窮地に追い込まれると、負けるものかという気持ちがむくむくと沸き起こる。それが竜馬にとっては魅力的であったが、竜馬仲間の亀山社中の男たちの中には心良く思われていないのも、おりょうは承知していた。
 その度『うちの味方は竜馬さんだけでいいんどす』とつぶやいてきた。

「何ぞ言ったか? おりょう」
「ええ。この景色はまことでありましょうか、と」
「まことであろう。おまんは変なことを言うやつじゃのう」
「まことにまことでありましょうか」
「わしが保証するき。心配いらんぜよ」
「なんだかこの峰の様子があまりに美し過ぎて、疑り深くなってしまいました。堪忍え」
「わしにはおまんの方が美し過ぎるわ」
 
 道案内の男は、ふたりの会話は聞こえぬふりを装い、竹筒の水をごくりと飲んでいる。
 竜馬は足元に手をやり、きりしまつづじの花をひと枝手折って、おりょうの黒々とした丸髷に挿した。おりょうは頬をほんのり蒸気させ、そっと後れ毛を手で直した。

「いにしえに、ににぎのみことっちゅう神さんがこの高千穂の地を開いたそうだが、今まで何度となく噴火を繰り返したっちゅうことじゃ。今はまことの景色でも、明日はわからん。わしが保証するのは今、この時だけっちゅうことじゃ」
 竜馬のその言葉に、なぜだかおりょうは胸にうちがざわめき、自然両の手をしっかりと合わせて祈り始めた。
「何をしゆうがか?」
「竜馬さんの明日をお祈りしてるんどす」
 ◇
 同年、慶応三年十二月十日京都近江屋で竜馬は暗殺され、短いふたりの結婚生活は終わった。
 
 後年発見された新しい惑星が、それぞれ『りょうま』『おりょう』と名付けられたということである。
 今頃空の上で、あれが日本初の新婚旅行になったらしいと二人で笑っているだろう。
 竜馬のことだから『西洋じゃ、はねむうん、いうらしいのう』とでも言って照れているかもしれない。
 
d0253237_1523578.jpg

[PR]
by soranosanngo | 2013-10-24 15:03 | 時空モノガタリ(掌編小説) | Comments(0)

 とある雑居ビルの二階の南西角部屋がワタクシ『猫探偵』の住居を兼ねた事務所である。午前八時きっかりにドアが開く。事務員の時子さんの出社だ。何事にも正確であることをモットーにしている。

「おはようございます、先生」
 今日もただの一本の後れ毛もなく髪を頭頂部でシニヨンでまとめ(はやくいえばひっつめ髪ですな)そのためいくぶん目尻のシワは伸ばされ若干つり目になっている。見た目はとても五十歳には見えないだろう。朝のおじぎは三〇度。さっそくいつも通り掃除を始めた。
 
 もともとは彼女は客で、ご主人が行方不明になり捜してほしいという依頼主だった。
 ある日ちょっと出かけてくると言ったまま一週間も帰ってこないという。結局その案件は、残念ながらコールドケース(未解決)に終わった。夫には借金もなく、愛人もなく、いたって健康で病気を苦にして自殺なんていうことも考えられない。
 
 街のあちこちに偵察させていた野良猫調査員(そのほとんどがワタクシの子供及び孫であるのだが)たちによると、夫は東京駅から成田エクスプレスに乗り、そのあと成田空港で日本航空のボーイング737に乗ったという。
 行き先はインドでした、と告げると、彼女は「あっ」と言って目を見開いた。まるで大事な約束を長いこと忘れていて、取り返しのつかない段になってようやく思い出したかのように。

 ──時間にすれば一分程度であろうか。宙をみつめて彼女は無言だった。ちょうど換毛期であったため、抜け落ちたワタクシの白い幾本かの冬毛が浮遊し、夕日に光っていたのをまるで昨日のように覚えている。

 夫婦がまだ若かりし頃夫が言っていたそうだ。いつかインドに行くのが夢だと。もともと大学の哲学科で学んだ彼は、人の幸せとは? とか人はどこへ行くのだろうか? といった類の小難しいことが大好きであったという。
 
インドが俺を呼んでいるんだ、いつか一緒に行かないか、とも。しかし時子さんは「私、カレー嫌いなのよね」と答えたそうだ。それきり夫はその話は一切しなくなり、夫は銀行員として定年まで勤め上げ、自宅のローンも完済したらしい。一人息子は社会人となって独立し、今がその時だと思いたったのではないか、と時子さんは言った。

「お見事な推察ですね。あなたには探偵の素質がおありになるようだ」
 ワタクシが褒めると時子さんはまんざらでもないように微笑んだ。
「でしたら是非ここで雇って下さいませんか? 夫が帰ってくるまでぼーっと家で待っているのもなんだかねえ」
 
 そういった経緯でここで働くようになったのだ。時子さんが来てからというもの仕事が増えた。主婦仲間にこの事務所の宣伝をしてくれたらしい。たいていが簡単な探しものだった。最近した仕事といえば、何年も行方知れずだった主婦の結婚指輪を糠床から見つけ出したというもの。指輪はすっかり糠みそ臭くなっていたが、取り返しのつかないほどの臭いではなかった。
 
 時子さんの推察は当たった。しばらくすると夫からエアメールの絵葉書が届くようになったらしい。消印はインド。
「それにしても、なんで黙っていってしまったのかしら。ちゃんと言ってくれてったら、こんなに心配しなくても済んだのに」
 
 人はなかば衝動的に何もかも捨ててしまいたい時があると聞く。新しい自分探し、という大義名分をつけて。それを旅と呼んで特別視する。つくづく人は厄介な生き物だ。
 およそそんなところではないかとワタクシはふんでいるのだが。

「そうだ、時子さん、明日から一週間ほど事務所を閉めます」
「はい、わかりました。例のアレ、ですわね」
 時子さんはソファーをコロコロで転がしながら、さも大変ですわねといわんばかりの同情にも似た表情を浮かべた。そう、猫には一年に何度か発情期があるのだ。大分人間に近くなったとはいえ、ワタクシも猫のはしくれであることを思い出す。

「えーと、それでは戸締り、よろしく頼みます」
 そわそわ、もぞもぞ、いやウキウキしながらワタクシは事務所を出た。
「行ってらっしゃいませ」
 
 時子さんに深々と四十五度のお辞儀をして見送られた。なんだか照れくさい。人の(いや、猫か)恋愛なんてそんな大層なモンじゃないのに。
 
 その時はっと気づく。時子さんの夫はこうやってご丁寧に見送られるのが嫌だったのではないか。時子さんのことだ。朝、夫が仕事に出るたびにこんな風にお辞儀して何十年も送りだしたに違いない。とすれば、インドへ行くと言えば、同じように深々とお辞儀して(もしかして目に涙など浮かべて)送りだすに違いない。
 旅に出る時、それも何もかも放って行く時は軽く手をふってもらうくらいがちょうどいいというものだ。男とはなんと厄介な生き物であることよ。

 ──ミャーオゥゥ
 ワタクシを呼ぶ雌猫の悩ましい声が聞こえる。期間限定とはいえ、旅というものは心踊るものである。
d0253237_17223423.jpg

[PR]
by soranosanngo | 2013-10-13 17:19 | 時空モノガタリ(掌編小説) | Comments(0)

トライアングル

 夫婦の形態は、もちろん人それぞれであろうが、夫が家で仕事をする人は、少数派かもしれない。うちは夫が物書きなので、始終一緒だ。結婚する前の私の仕事(小さな出版社で編集者をしていた)仲間からは
「よく飽きないね」
「けんかした時は、どうするの?」
 などと言われるが、不思議なことに飽きることは今だにないし、けんかもしたことがない。
 
 もともと私は夫が書く小説のファンであり、もちろんそれは現在進行形だ。。思えば中学生の時からであるからして、年季が入りまくって発酵してるかもしれない。同級生が、アイドルにキャーキャー言っているのを横目に、作家、如月 周(きさらぎ あまね)に疑似恋愛をしていた。
 
 のちに知るのだが、驚いたことにその名前はペンネームではなく、本名だった。なので、結婚して私は如月弥生(きさらぎ やよい)になる。
 
 ご存知のように如月は二月の別称、弥生は三月の別称で(三月生まれの私に両親がつけた名前)なんとも妙な取合せになってしまったが、それさえも気に入っている。ええ、気に入っていますとも! たとえ、役所で名前を書くと3回に一回くらいは『あのう、これは名前でございますよね』と窓口の人に訝しがられたとしても、だ。(名前でないなら、なんであるというのだ?)
 
 そんな訳で、夫はたぶん初恋の人だったのだろう。彼の描く恋愛小説の結末は、大体において切ないアンハッピーエンドだった。何度泣いたことだろう。まだ未体験である恋愛への妄想は、破裂寸前の風船のごとく膨らんでいた。
 初恋は実らないというが、なんとか彼と知り合うために私は彼の本を多く出している小さな出版社に、大学生の頃からアルバイトするようになり、卒業と同時に就職した。奇跡的に結婚までこぎつけたからいいようなものの、もしそうでなかったら、私は彼のストーカーとして一生を終えるところだった。だから世間でストーカー殺人が報道されるたび、それがまったくの他人事だと思えないのである。アブナイ、アブナイ。
 
 そうして始まった結婚生活だったので、ある一点を除いては、夢のように楽しい。
 
 その一点とは、ひとことで言うと「三角関係」。
 それも人間でなく、猫。白猫でところどころ黒いブチがあり、名前を『なずな』という。夫がまだ売れなかった頃、一面なずなの咲く原っぱで(要はよくある空き地なのだが)拾った、もとは捨て猫を、夫はそれはそれは大事にしていたのだった。なずなを飼い出してから、新人賞を取り、作家としてスタートできたと言い、自分にとって、アゲネコだと信じている。
 
 もちろんメス。をんな。夫とのつきあいにおいて、私は新参者であるから、最初は下手に出ていたのだが、一年たった今も一向になついてくれない。どうやら自分のことを本妻だと思っている節がある。(そしたら私は愛人か?)リビングの一番広いソファに、ごろんと寝そべる様はマダームの貫禄である。私がそこに座ろうものなら
「シャァァァー」
 と世にも恐ろし気な形相で、牙はむきだし、敵意むきだしでとびかかってくる。
 
 かくして夫が仕事の合間などに、そのソファーに座り、なずなとじゃれ合っているのを、私は横目で見て歯ぎしり、もしくはせんべいをバリバリと、やけ食いするしかないのであった。
 
 夫の前では貞淑なマダームを演じているなずなだったが、時々朝帰りしているのを私は知っている。明け方、猫専用ドアがコトリ、というのをいくども聞いているのだ。ネタはあがってンだよ!
 
 もし映画にするなら、なずな役は永遠の小悪魔、ブリジッドバルドーにやってほしい。タイトルは「トライアングル」なんてどうだろう。私はお屋敷のお手伝いで、だんなさまに「奥様、昨晩も夜遊びされてました」とこっそりとチクる役。うーん、あんまりいい役じゃないなぁ。主人公がどんなに自堕落であろうとも、それを魅力的に描くのが映画であるから、ド真面な、面白みのない地味ィなお手伝いになど、観客にはちっともウケナイだろう。
 
 まさになずなは『猫かぶり』を地でいく女なのだ。
 
 そんな女も(いや、猫か)十二歳。人間でいったら、六十代の立派なおばさんである。
 
 つい先日のこと。
 夫がいない時に、急に具合が悪くなり、白目を剥いて痙攣したことがあった。私の中の悪魔がささやく。
『ほっとけば……』
『いやいやいや~』
『気づかないふりしちゃえば……。そしたらトライアングルはめでたく終わるじゃないか』
 しかしすんでのところで踏みとどまり、私の中の天使が勝った。良心といえなくもないが、ほんとのところ、そうなった場合化け猫になるであろう(それは確信ダ)なずなを想像してしまい怖ろしくなったのだ。

 私はすぐさま動物病院に駆け込んだ。なずなは急性腎不全を起こしていて、ほっとけば危なかったようだ。一日入院したのち、翌日夫とふたりで引き取りにいくと、病み上がりの妙に色っぽいなずなが横たわっていた。
 これは、もう「世界の中心で、愛を叫ぶ」ではないか!
 
 夫の胸に抱かれ「アー」とか細く鳴き声を上げる、なずな。私には「アマネー」と夫の名前を呼ぶ声に聞こえる。私なんて夫を今だに名前で呼べず、『センセイ』なのに。く、くやしいぃ。
 『なずな』なんて、ぺんぺん草のくせにぃ。
 なによ、二月三月のくせに、とでも言いたげに、キッと私を睨むなずな。トホホ。

 夫の書く小説は未だにアンハッピーエンドのおはなしが多いが、私の実生活はコメディに近い。コメディというものは、たいていハッピーエンドであろうから(これは私の独断)まあ、いいとするか。

 こんなわけで、二人と一匹の微妙な生活はまだまだ続きそうなのである。
                                   
                           おしまい
d0253237_1557296.jpg

[PR]
by soranosanngo | 2013-09-25 15:57 | 時空モノガタリ(掌編小説) | Comments(2)

とんかつ日和

 直子に割り当てられた場所は運良く窓際であった。
 
 数日の仮住まいの予定とはいえ、六人部屋で窓際に当たる確立は三分の一。歳末大売出しなどのガラガラで、いつもポケットティッシュしか当たらない(それは参加賞を意味しているので、当たるという言葉は妥当でないかもしれない)直子は考える。こんなちっぽけなことでも、人は運、不運を考えてしまう不思議な思考回路を供えた生き物であると。
 そして幸運に恵まれたと思っていても、果たしてそれが本当の幸運とは限らない。不運もまた然り。
 例えば、この窓際のベッドは陽がさんさんと降り注ぎ、五階の窓から見える人工的に作られたような庭が見下ろせ、いかにも心がやすらぎそうだ。しかし必然的に浴びてしまうであろう紫外線の量はどうであるか。一番多いであろうことは容易に想像がつく。それが最近気になり始めたしみをもうひとつ増やす原因となるかもしれない。
 
 ――幸運と不運は表裏一体のコインのようだ。
 
 そんなことより、ここに入院しているということは、直子と同じような病人であるということだろうから、別次元で考えると、幸運とは程遠い六人である。そこまで考えて直子は顔には出さず、苦笑いした。「直子の理屈っぽいところ、案外好きさ」とかつて言った男のことを思い出したのだ。二年つきあって、別れた。男は既婚者だった。
 それから直子の理屈っぽさを愛してくれる男は現れない。そのせいか理屈っぽいという世間一般からしてみたら、長所とはいえない性格の一端に拍車がかかったような気がしていた。誰かに聞いてもらえれば、どんなへんてこな理屈でも一応は終結するものだ。けれどひとりごとは違う。時間のある限り、自由に伸びていく。豆のつるのように。そして寄りかかるものあれば、巻き付き、それが幸運にしろ不運にしろ、取り込んでしまう、厄介なものである。
 もしこれから先恋愛のない人生を送るとしたら、あれが最後の恋人ということになる。
 始まる時、もう既に、どこか後ろめたさが伴う恋愛だったが、「最後の恋人」そんな称号を与えればがぜんロマンチックめいたものが漂うのはどうしてだろう。玩具箱のなかに無造作に放り込んであった、がらくたのひとつに、帝政ロシアのロマノフ王朝の最後の皇帝ニコライ二世のマトリョーシカだという、ひとつのモノガタリを加えてみればどうか。たとえ眉唾ものだと思ってみても、その価値がたちまちつりあがってしまうことだろう。
 やはり人間は不思議な思考回路を備えた生き物であると直子は思った。

 都会にも自然はある。東京には空がない、などと東京生まれ、東京育ちにの直子は、今まで一度たりとも思ったことはなかった。春になれば蒲公英がほこりっぽい空気の中で咲く。夏になれば新宿御苑の蝉たちはけたたましく鳴きわめく。花は花であり、虫は虫であり、空は空である。
 新宿の病院とはいえ、窓から咲き始めた桜が見えたのもさほど驚くことではないかもしれない。
 直子が下着やら湯のみやら、身の回りのものを、ひと通り備え付けの小さなロッカーに納めていると、直子の弟がやってきた。直子のベッドにたどり着くまで、お世話になります、と同室の人にぺこりとお辞儀しつつ歩いていくる。
「わざわざ会社休んでくれなくても良かったのに」
「いや、どうせ有給たまってたしさ」
「悪いね。あさっての手術の日もお願いね。身内が立ち会わなきゃならないらしいんだ」
「わかってるって。大丈夫だよ、心配しなくても。決算終わったばかりだし。ふうん、わりかしいい眺めだね」
「桜はあんまり好きじゃないけど」
「まあ、そう言うなよ。寝ながら花見なんて贅沢な話だよ」

 五年前に末期の子宮癌と診断され、あっけなく直子たちの母が逝ってしまったのも桜の季節だった。
「ねえさん、お昼とんかつ食べにいこうよ」
「えっいいの? 病院で食べなくても」
「さっき看護師に聞いたら、外出届けを出してくれたらいいですって」
「そうなんだ、案外病院も自由なのね」
「消化器系に病気があったらだめだろうけどさ。今日は入院手続きしたら他にやることはないんだって。明日は手術前の検査がいろいろあって忙しいらしいけどさ」
「やだなあ、注射や点滴されるのかなあ」
 直子は無意識に腕をさすっていた。病院で何度か採血したが、いずれも一度では血管に入らなかったのを思い出していた。そしてそのあと、一週間は青痣になる。青い内出血は次第に黒ずみ、そして黄色くなっていく痛ましいさまは、まさしく病葉のようであった。私の血管も母譲りなのだろうかと直子は思い出していた。入院していた母の腕も同じように青痣が絶えることがなかったのを。

 直子の子宮にはどうやら癌が出来ているらしい。先月受けた検診で見つかった。  
 手術はあさってを予定している。女に産まれたのに、一度もその機能を使わずに捨ててしまうのは、やはり哀しい。四十歳になるまで商社の総合職で頑張ってきたことに後悔はない。結婚を選択しなかったことにも後悔はない。けれど、あの時産まなかったことだけに対しては後悔している。
 もしあの時自分の未来を知ることができたら、産むという選択をしただろうか。シングルマザーとして子どもを育てていく覚悟が持てただろうか。今となっては考えても仕方のないことなのだが、つい考えてしまうのだった。
 けれど命を闇に葬ったことは事実であって、一生自分をさいなんでいくだろうと直子は思っていた。
 子宮癌と診断され、それもまったくの早期ではなく、医者に全摘出を勧めらた時には動揺した。冷静になって考えれば、私に一番不必要な臓器ではないかと強がってみせた。実際のところ、母が同じ癌を患い亡くなったことは、いつか自分もそうなるのではないかと心のどこかで怯えてきたのだった。直子の病名は子宮頸癌なので、原因は遺伝などではなく、ウィルスであるということを知った今でも、なんとはなしに同じ病気に罹った母との符号に、奇妙なものを感じずにはいられない。
 そしてそのことが紛れもない現実となって、不思議なことに、ほっと胸をなでおろす自分に気づいたのだった。いつか癌になるんじゃないかという不安から開放されたのだった。
 そして生きることを最優先にしようと覚悟し、手術で子宮を摘出することを決めた。後悔しながらでも、やはり生きていたい、そう強く思うのだった。

  直子も年子の弟も父の顔を写真でしか知らない。直子がまだ三歳のころ、交通事故で亡くなった。
「ねえ、誰かいい人いないの?」
「なんだよ、やぶからぼうに」
 直子は声をひそめる。
「だって、もしも、もしもよ、手術が失敗して私が死んだら、あんた、天涯孤独よ」
「大きなお世話だよ。そんなに心配だったら、死ななきゃいいじゃんか」
 弟はぷいっと横を向いた。そんなところは幼い頃とちっとも変わっていない、来年には四十(しじゅう)になる男を可愛いなんて思う女は私以外に現れないのだろうか。
 弟がネットで調べてくれた「とんかつ伊勢」は、病院からタクシーで十分ほどだった。新宿のNSビルの二十九階にある。ここでも運良く窓際の席に案内された。
「わー富士山が見えるよ。すごいわ」
「今の時期は空が霞んでるから、こんなにくっきり富士山が見えることは少ないのに、ラッキーだよ、ねえさん」
「富士山、一度くらいは登ってみたかったな」
「退院して元気になったら、連れてってやるよ、いくらだって」
「私、ひれかつ定食ね」
「どうせなら上ひれかつにしなよ、奢るからさ」
「いいの? ありがとう。そういえば、運動会の前の夜は、母さんいつもとんかつ作ってくれたね。ちょっと揚げすぎみたいで、衣が焦げ茶だったっけ。このメニューの写真のように、いかにも美味しそうな黄金色の衣じゃなくてさ。食べ始めると必ず、どう? ちゃんと揚がってる? 生っぽかったらいうのよ、って言ってたっけ。でも、あのとんかつの味は、格別だったっけ。なんか明日は頑張ろうって思えたもの」
「うん。験担ぎだったんだろうね。今だからいうけどさ、あれ、俺は嫌だった。俺、走るの苦手だったからさ。なんだか無言のプレッシャー感じちゃって」
「えっそうなの? いつも美味しそうにたべてたじゃない、あんた」
「いや、とんかつは大好物だったんだけど」
 小学生の時、弟は少々肥満体質だった。おまけにチビでメガネをかけていた。当然といえば当然のように、それをはやされ、いじめっ子たちの標的になったことがあった。チビデブメガネと言われて泣いて帰ってきた弟に直子は
「チビが嫌なら牛乳を飲んで背を伸ばすのよ。デブが嫌なら運動して痩せなさい」
 と言ったことがある。幼いなりの精一杯のアドバイスだった。フルタイムで忙しく働く母に心配かけたくない、口に出して言ったことはなかったが、それが直子と弟の心にいつもあったようだ。それからしばらくは暗くなるまで縄跳びをする弟に、直子も一緒になってつきあったことがある。効果のほどはあまりなかったようだが、中学に上がると、自然に痩せて、背もいつのまにか直子を追い抜かしていった。大学生になって、バイトしてメガネからコンタクトレンズに変えていた。
 チビデブメガネはもう直子の想い出の中の弟でしかない。そして今はもうそのどれも当てはまらないのだった。
「でもさ、勉強は私なんかよりよく出来たよね。母さんの自慢の息子だった」
 そして直子は、弟が優しい心根を持つということを、誰よりも知っていると思った。
 私たちはずいぶん遠いところまで歩いてきたようだ。ふと気づけば、幼かった姉と弟は、すっかり大人になってしまっている。
 人生に勝ち負けがあるとしたら、私は買ったのか負けたのか。いいや、そんなこともういいではないか。一緒にとんかつ食べてくれる人がいる。それだけで幸せだと思おう。
「験担ぎ……そうか、手術に勝て、こと? もしかして」
「今頃気づいたのか? ねえさん、遅すぎ、ていうか鈍すぎ!」
 二人して肩を震わせて笑っていたら、ウエイトレスが注文を聞くためであろう、一点の迷いもない足取りで、自分たちの席のほうへ歩いてくるのが視界に入った。
 直子は目頭に少しだけ滲んだ涙を、人差し指でそっとぬぐい、窓の外に広がる風景に再び目をやる。
 
 東京にもこんなに美しい空があったんだ。
 
[PR]
by soranosanngo | 2013-09-24 15:05 | 時空モノガタリ(掌編小説) | Comments(2)

夕立ち

 雨の匂いがする、と塔子は思った。
 
 
 塔子は昔から極度に嗅覚が鋭いところがあって、いい匂いにしても、そうでない匂いにしても人より早く、強く匂ってしまうタチらしい。
 
 匂いというものは、歓迎するしないにかかわらず、、勝手に向こうからやってくるのだから仕方ない。
 ああ、何かに似ている。そうだ、恋はたぶんこんな感じだったんじゃないか。かつて恋をしていた時のことを思い出した。
「あの頃、私は確かに恋をしていたに違いない」
 ミュージシャンを夢見ていた男を追いかけて、せっせと言われるまま、お金を工面していたが、気づくと総額が五百万円を越していた。OLだった塔子の貯金はほぼ0円。5年越しの恋はあっけなく冷めた。
 
 塔子は結婚してそろそろ一年になる。
 夫とは友人の紹介で出会い、一年の交際を経て結婚した。「夫にちゃんと恋していたんだろうか」心の中でつぶやいてみる。
 地方公務員という安定した職業に惹かれただけなのではないか。もちろん性格も良さそうだというのはあったが、そこに打算がなかったとは言えない。
 
 今思うと三十歳を目前にして結婚をあせっていたのかもしれなかった。一年経てば、女としての価値が下がってしまうのではないか。暴落する前に、なんとか……そんな気持ちが働いたのは正直なところだった。
 
 結婚して少し太ったのか、サイズがゆるめでくるくると指で回っていた結婚指輪が、今ではしっくりと指に収まっている。はずそうとすると、第二関節のところで、止まってしまい、かなりの痛さが伴い、難儀する。きっともう一年もすれば、用意にはずせなくなるのではないか、どこかであせりにも似た、恐怖が襲ってくる。このままでいいのだろうか、と。
 
 犬は人間以上に嗅覚が発達しているというが、実はその嗅覚に蓋が出来るというのは本当だろうかと、塔子は新聞で読んだ記事を思い出し、実家で飼っている犬のマロンに無性に会いたくなった。
 マロンは塔子が高校に入学した時に飼い始めた犬で、結婚を機に家を出た塔子にとって、たまにしか会えないので、可愛さが募る。
 夫は犬アレルギーで、一緒に実家を訪れたあとは、一日せきが収まらなかった。「あの犬、キャンキャン吠えやがって。いったいいつになったら俺のこと覚えるんだ」帰り道、運転しながらそんな風に言う夫の横顔は見知らぬ男のようによそよそしく感じられた。
 
 雨の匂いが強くなってきた、と塔子は思った。
 
 降ってくる前に洗濯物を取り込んでしまおう、とベランダに出た。一枚一枚パジャマや下着はもちろん靴下の類まで裏返して干しておいたのをまた丁寧に表に返す作業を繰り返す。虚しい家事ロボットだ、とひとりごちた。
 結婚して半年ほどした頃だろうか、夫のパジャマのズボンに蜂が入っていたことがあり、怒った夫は塔子の頬を打った。
「おまえは亭主を殺す気か」
 激高して鬼のように真っ赤になって夫は怒った。夫がまだ小さい頃、近所の人が蜂に刺されてアナフィラキーショックで亡くなる事件があり、それからというもの、極度に蜂を畏れてきたらしい。
「ごめんなさい、気づかなくて」
 それだけ言うとあとは言葉にならなかった。
 親にも頬を打たれたこともなく、暴力に免疫がなかった塔子は、痛さより、その衝撃にただ驚き、涙が止まらなくなってしまった。

「泣きたいのはこっちほうだよ、これからは気をつけてくれよっ」
 それから塔子は洗濯物を裏返して干すようになった。アナフィラキーショックというのは二度目が危ないらしい。

「あっ」
 裏返した夫の白いシャツの袖から、ポトリと何かが落ちて、それからぶうんと羽音を立てて飛び去った。
「嫌だ、蜂だわ」
 もしまた夫が蜂に刺されたりしたら、ひどいことになっていただろう。それとも……。塔子は夫が胸をかきむしって倒れる姿を想像した。心がどこまでも冷えていくようだった。
 それから間をおかず、雨がやってきた。
 ザー……。
 
 大粒の雨に打たれたまま、しばらくそのまま動けずにいた。胸の中に湧いた黒い感情に蓋をする術を、塔子は知らなかった。
[PR]
by soranosanngo | 2013-09-24 13:23 | 時空モノガタリ(掌編小説) | Comments(0)

京都「さまよえる鬼」

「こわいよ、かかさま」」
「またこわいゆめをみたのね。だいじょうぶよ、かかさまがそばにいるわ」
   ◇
 小さな灯によって浮かび上がったその影に、ふたつの角があることを子はまだ気づいてはいない。
 ほんとうの鬼は、夢のなかに棲んでいるのではなく、現実のなかに棲んでいることをまだ知らない。
   ◇
 わたくしのことをお知りになりたいのですか?今はこんな姿に成り果ててしまいましたが、もとはおひいさま、と呼ばれていた時代もあったのです。
 南蛮渡来の金糸雀とともに唄い、螺鈿細工の小箱のなかに美しい日々の栞をおさめては眺め愛でていたものです。
 人の運命の儚さを知ったのは、父上が謀反の罪をかけられて、一族郎党、自分が何者かもわかっていない乳飲み子までもが無慈悲にも囚われ、三条河原で首をはねられた時です。
 そのとき、河はわたくしたちの血で真っ赤に染まり、
のちに赤い川魚カワウオが採れたそうです。
 首はそのまま捨て置かれ、蛆が湧き、醜く腐敗し、風雨にさらされ、最期は白い骨となり果てました。
 そのままわたくしは鬼となり、このように現世ウツシヨを彷徨ってサマヨッテいるのでございます。
 人の心のほんの隙間に生まれた、どす黒い感情を渡り歩いて、生きながらえているのです。
   
    ◇
【case1】
 北国のマンションで姉妹が死んでいるのが発見されました。
共に四十代で妹が二ヶ月ほど前に脳内出血で病死、姉は一ヶ月ほど前に餓死と凍死が原因で亡くなったと考えられています。
 既に両親は亡くなり、知的障害を持つ妹のめんどうをみながら姉は働き続けていましたが、相次いで仕事先は倒産しました。
 失業保険の給付も終わり電気ガスが止められ、今日食べる米さえなくなりました。困った姉は福祉事務所に相談に行きましたが、役人は
「あなたまだ若いのだから、働きなさい」
と言いました。
 雇ってくれるところがないのです。それともカラダでも何でも売って、お金を稼ぎなさいという意味ですか?
 今日食べる米さえない者はほんとうに困った人ではないというのでしょうか。
 ほんとうに困った人に手を差しのべるのが、福祉ではないのでしょうか。
 生活保護は申請しなければ受給できない制度だそうですが、その申請の仕方を教えてあげることはできなかったのでしょうか。
 ほんとうに困っていた姉は二週間分の缶に入った非常食用のパンを渡されただけでした。
 コンビニでは賞味期限の切れたまだ食べられる大量の弁当が毎日破棄されます。
 けれどこの飽食の日本で餓死する人がいることは、事実なのです。
 すべては鬼のなせる仕業なのでしょう。
こ うして鬼は息絶えることなく密かに命長らえているのです、今も、今この時も。鬼が人を殺しているのです。
   ◇
「こわいよ、かかさま、おにがおいかけてくるよ」
「またこわいゆめをみたのね。だいじょうぶよ、かかさまがそばにいるわ」
   
    ◇
【case2】
 母親は幼い子供の細い首に手をかけた。
 おまえさえ、いなければ、私は幸せになれるんだ、と。

 今日の よすがに 鬼がまた人を殺す。
   
    ◇
「こわいよ、かかさま、おにがおいかけてくるよ」
「だいじょうぶだよ、もうおまえも鬼になったのだからね」
[PR]
by soranosanngo | 2013-09-24 13:20 | 時空モノガタリ(掌編小説) | Comments(0)