カテゴリ:読書ノート( 24 )

まず表紙の絵から惹きつけられるものがあった。
空中に浮かんだ大きな目玉(のようなもの)、そして手をつないだ男女。
眼玉はタイトルの「死水晶」に重なる。男女は冒険の途で、今、不思議な輝くものと出会う。
そこは幻夢の神殿なのだろうか。
そんなストーリーがそこから語られているようだ。

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作者の白島さんとは現代詩フォーラムという詩の投稿サイトで知り合い、
とても文学性の高い詩を書かれる方だと以前から思っていた。
一篇の詩がその詩人の今日だとしたら、詩集というものは今日まで積み重ねた厚みのあるもので
読み終わった時、旅をした気分になった。
「死水晶」を巡る旅。
とても素敵な読書体験であった。

特に長編詩「肉体の創世記」に感銘を受けた。
 
 五日目に
 生まれたまばりの鳥が
 意味の彼方へと
 羽搏いていった
 その地平が僕の心象風景〈死〉である
 と気づいたとき
 近しい死への
 ふかい距離を垣間見た
 ぼくという主語は消され
 仮構の小舟は廃船と化した(「肉体の創世記」より一部抜粋)

生と死の近さを感じ、またそれらはめぐるものではないかと思う。

 半ズボンが草野球している地平から
 少年の日の合鍵が見つかったとしても
 ぼくは そっと仕舞いこむだけだろう
 埃だらけの状差しに

 幾千台もの機織り機が
 ぼくの血を織っていってしまうので
 ああ 空はこんなにも重いのです(「失恋」より一部抜粋)

失恋の痛みをこんな風にリリカルにうたわれると、失恋することもそう悪くはないことなのかも
と思えてしまう。

そうそう、ペンネームのからくりも面白かった。
「し」が三回も入っているのは、それが詩であり死でもあるのかな? ふと思う。

とても素晴らしい詩集をありがとうございました。





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by soranosanngo | 2017-03-21 12:38 | 読書ノート | Comments(0)

福島原発事故にまつわる様々な人の実情を描いた短編小説集。
そのタイトルが「道成寺」「黒塚」「卒塔婆小町」「善知鳥」「俊寛」とある。
どれもが能のタイトルだ。
絶妙に能の内容が現代に生きる人間の行き様とリンクしている。
電力もない昔に比べても、人の世とは、人間とは変わらないものなのか。

読み進めていくうちに、まるでノンフィクションかのような錯覚に陥る。
「原発で亡くなった人はいない」と国会議員が発言したことは本当のことだし
川内原発(せんだいげんぱつ)のことを「かわうちげんぱつ」と云った大臣のことは記憶にある。
「道成寺」では、主人公の原発作業員がベントを手動で操作する
「決死隊」の一員となりその任務を遂行する。
(電力を産む原発で、地震、津波による破損で電力が使えないなんて
 笑えないブラックジョーク、といったら不謹慎だろうか)
彼には日本を救うなどという使命感はない。
あるのは
「できることなら、この場から今すぐ逃げ出したい」という想い。
あの日。
私はテレビを見ていた。
建屋の中で誰かが命を削って作業していたことさえ知らずに。
水素爆発が起きた。
もう何年も前のことのように思えるのだが、たった6年余り前のことだ。
「道成寺」の蛇の最期は入水して終わるのだとか。
現代の「道成寺」の終わりは永遠とも呼べそうな永い時間が必要だそうだ。
プルトニウム239の半減期は約二万四千年と書かれてある。
その頃、人類は地球で生息しているのだろうか。

この小説がSF小説であったら楽しめただろう。
小説としてとても面白いけれど
面白かったということは、はばかられる。
ここに描かれていることは紛れもなく現実に根差した
震災小説なのだと思うとおそろしい。
「黒塚」の中で被爆についてとてもわかりやすい説明があった。
放射能とは、細くとても固い糸のようなもので、それにとっては人体は豆腐のようなもの。
それは細胞のDNAさえも貫いてしまう。
DNAには傷を修復する能力があり、微量な場合はそれほどの影響はないそうだが
大量被爆によって傷つけられると細胞レベルで死んでいくか、癌化するのだそうだ。

表紙には砂漠のような地に建っている宮殿のようにも思える建物。おそらくその中には
[象]がいて、高い放射線を出し続けている。
端っこに、二羽の鳥と、二人のとても小さな人間がいた。

2017年1月19日読了

<追記>
2017年1月20日に、高浜原発で、クレーンが原子炉補助建屋と燃料取扱建屋に倒れ込んだというニュースがあった。
強風のためらしい。
強風も想定外ということなのか。
屋根の破損だけで、建屋自体に破損はないという。あったら大変なことになっていたのではないだろうか。
なんだか原発ってタイトロープの上にいまだにいるみたいだ。



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by soranosanngo | 2017-01-20 13:04 | 読書ノート | Comments(0)

 ホラーかなと思いつつ読んだら、そういう描写はなくて最後まで読めた。
 久しぶりに読んだエンタメミステリー?系小説だったけれど、いろんな謎が明かされていく面白さであっという間に読んでしまった。
 作中作の昭和初期に書かれた吉屋信子みたいな小説と平行して現代のお話は進む。
 太い縦糸が数本あって、それに張り巡らされた横糸。
 それがちゃんと模様になっていく感覚。なるほど、そういうことかっていう感じ。
 お嬢様のゆくえは? それはラストで明かされるのだが、なんとなく想像してたもののひとつだったので、そんなに驚かなかった嫌な読者です(笑)
(ちなみにやけに丹念に描かれている美味しそうな高級料理の数々はその伏線だと思われます)
 時代は変わっても人間はやっぱりオソロシイ生き物だけど、主な登場人物のキャラクターに救われるお話でもありました。

 ちなみに一番怖かったのは、お話に中で「まりも」をペットにしているというところ。
超個人的でごめんなさい。でも読書の醍醐味のひとつに、その超個人的なところが作者、もしくは作品とリンクしてしまう、ってところかなとも思ったりする。
 最近「まりも」という名前の登場人物で小説を書こうと思っていた私にとって、このシンクロはかなりぞぞっとするものでした。
やっぱりホラーだ! 超個人的なくくりで。(笑)

 10月6日読了。
 

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by soranosanngo | 2016-10-07 08:17 | 読書ノート | Comments(0)

 人生の中で、愛する人の死ほど哀しいことはないと思う。
 けれど残された人は、どうにかして生きてゆく。そのために『日常』は用意されているのだと思うし、「昨夜のカレー」や「明日のパン」が文字通り食べて命をつないでゆくための、ささやかだけど大切なことであるのだなあと思った。
 

(以下文中より抜き書き)
 「もういいよね。一樹は死んだってことで」ギフはうんうんとうなづいた。
 「もう、ここにはいないってことで、もうそういうことで、いいよね?」

  照明がカチカチと点滅した。ギフが見上げて
 「一樹もそれでいいといってる」
 と言った。


 照明がカチカチしたのは、電球が古くなったからなのだろうけど、それが亡くなった人からのサインだと思ってしまう、もしくは思いたい、そんな気持ちに共感してしまう。生きている人は、時に庭に入り込んだ蝶や、夏の水辺に光る蛍やに、誰かを想い重ねる。そうすることで悲しみがいくぶん和らぐのを感じるだろう。
「いない」とすることは、忘れてしまうこととは違う。
 亡くなった人を「もうここにはいない人」と納得できるまでの日常が、時にユーモラスに淡々と描かれている。

 最後まで読むと、ちょっと謎めいたタイトルが心にストンと落ちてきた。


 「一本の線」

 昨日という一本の線があった
 そこへ今日という線を重ねる
 時に慎重に
 時に乱暴に
 そして明日
  わたしはふたたびそこへ
 新しい線を重ねるだろうか
 
 真正面から見た線は
 細く儚げに見えるけれど
 角度を変えてながめれば
 重なった分だけ
 太く 育っている
 
 線は すっくと立っている
 
 人生の営みの中でめぐりあった
 たくさんの見えない手に支えられるようにして

        珊瑚

 

 
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by soranosanngo | 2016-07-03 11:56 | 読書ノート | Comments(0)

2015年芥川賞受賞作品。遅ればせながら読んだ。
この本はお笑い芸人である主人公とその先輩の悲喜こもごもを描いた小説。

笑うとちょっと幸せな気持ちになる。たぶん心にいい作用があるのではないかと思うし、笑うということが健康法のひとつであるとどこかで聞いたこともある。

人を笑わせるということを職業にするって大変なことなんだなあと思う。
「面白いでしょ」と押し付けられれば、たぶん私は笑えない。
この本の後半に出てくるお笑いの会話文の一幕があるのだが、ここは本当に面白く、そして泣けた。
ここにたどりつくまでのいろいろな想いがまさに火花を散らしているように感じた。

テレビに出ている若手芸人と呼ばれる人たちが一年後まだ活躍している確率はそんなに高くないだろうと想像する。

「――ずっと笑わせてきたわけや。それはとてつもない能力を身につけたということやで。ボクサーのパンチと一緒やで。ただし芸人のパンチは殴れば殴るほど人を幸せに出来るねん」(文中より抜き書き)

 絶妙な比喩に深くうなずいてしまった。笑いの火花、幸せな火花。

「同世代で売れるのは一握りかもしれへん。でも周りと比較されて独自のものを生み出したり、淘汰されたりされるわけやろ。この壮大な大会には勝ち負けがちゃんとある。だから面白いねん。でもな淘汰された奴等の存在って、絶対に無駄じゃないねん」(文中より抜き書き)

お笑いの世界だけではなく、普遍性を含んだ言葉だなあと思った。頂点を目指し頑張っている人の多くはその頂点にたどりつくことは難しい。けれどその頂点は点で出来ているわけではなく、裾野の広がった三角形で出来ているのだ。
また、人より屈折していて、不器用にしか生きられない先輩のそんな言葉が胸を打ち、そこに人生の無情を感じつつも、温かい。
学校で、社会で、人はおのれの不器用さを(多少の違いや自覚するかしないかはあるとは思うけど)矯正することを葛藤しながらも学び、人間社会に順応してゆく。
だから大人になってもいまだ「純正」な不器用さを手放せない先輩のことを、愛おしく思えるのかもしれない。
そしていつも周りになじめずにいるような彼のことを、まっこうから肯定しているこの小説をも愛おしい。


先輩と後輩という立場が、読み進めていくうちに、距離感が縮まっていき、最後は逆転するようなラストもどこか温かく、幸せな気持ちになった。読んでよかったと思った。

芥川賞とか純文学というと難解なイメージを持ってしまうが、この本はすらすら読めて面白かった。
ちなみに高校生の娘も面白かったと言っていた。
じゃろー! じゃろー!!(広島弁・そうでしょうの意味)
たいてい私が勧めた本を娘は面白くないと言うので、久しぶりに親子の感想が一致したのも嬉しい。
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by soranosanngo | 2016-06-16 15:18 | 読書ノート | Comments(0)

一枚の笹舟。それが川をくだり、海へ出てゆく。
それが一人の女の人生をメタファとして立ちあげるような物語だった。

人は選んで産まれてくることはできない。
たとえば、時代。戦争のあった時代、幼かった主人公は疎開地で過ごす。
そこでの過酷な生活。飢えというものは想像がつくが、飢えた者の中でのいじめ。
いじめた方は時間とともに、その記憶を失い、いじめられた方は忘れられない。
人の記憶とは都合よくできている。
忘れられない記憶が、それからの長い一生を左右してしまうほど強烈だったとしたら
悲劇だと思う。
「ばちがあたる」とか「因果応報」とかは童話や昔話になかのことわりであり、現実的には起こらなかったりする。そもそも「ばち」をあてることが出来るのは誰なのか。
けれど主人公の義理の妹となった女は、そんな忌々しい記憶さえ、生きる糧として
いうなら「勝ち組」として人生を渡ってゆく。
荒波さえ人生の醍醐味とでも言って楽しむように。
まるで計画通りに生きてゆく義妹のしたたかさが、ちょっとこわくもかんじる。
主人公の生き方はそれに対極的だ。
結婚して根を下ろしたような気持になっても、いずれ家族はばらばらになり、住む家さえ変えざるをえない。
家族がいるから幸せだというのは一方では幻想で、家族があるがゆえの苦悩がそこにはある。
年齢を重ねても、人生は海をゆくよるべない笹の舟のようなのは変わりない。
どこへという目的もないまま、ただ渡ってゆくしかないのだろう。

小さい頃、笹舟を作ってふるさとを流れる川に流したことがあった。
子どもの遊びというものは単純にやっていながら、あとになって思い起こせば実は深いことを秘めていたような気もする。
わたしが流した笹舟は、海へたどりつけたのだろうか。
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by soranosanngo | 2016-03-11 13:58 | 読書ノート | Comments(0)

村上春樹のエッセイのような本で、どうして小説家となったのかとか、どうやって小説を書いているのかとか、その人となりが伝わってくるような本。

【僕が長年にわたっていちばん大切にしてきたのは「自分は何かしらの特別な力によって、小説を書くチャンスを与えられたのだ」という実直な認識です】(52ページより抜粋)
 人生において何かやりとげよう思ったら、自己の能力を肯定する、過大評価でなく、実直に、というのは、それを持ち続けるのは難しいことであろうけれど、とても大切なことかもしれない。
 「小説を書く力」を人によってはたとえば「歌うチャンス」とか「走るチャンス」に変えることだって出来るだろう。

他にもいろいろな文学賞に対する考えなど、普段ではあまり触れることのないバックヤードみたいなものも読めて興味深かった。村上春樹という人が賞に対して興味がないことはわかったが、いちファンとしてノーベル文学賞を受賞して、どんなスピーチをするのか、是非聞いてみたいところである。

人にとっても日常は、楽しいことばかりでなくもしかしたら辛いことのほうが多いかもしれない。
それが現実、だから。
けれどもいったん物語として読むとなると、そこに描かれた人生、決して楽しいだけではない物語はなぜ楽しいのだろうと、つねづね疑問に思っていた。架空の中にひとつの現実だから、ということを差し引いても。
同書の中に「書くことが楽しい」「今度は自分の小説の中でどんなキャラクターに会えるのだろうと思うとわくわくする」というようなことが書かれていて、ああ、そうかと思う。作者本人がいちばん楽しんでいるのだから、それを読む人がすべての人ではないにしろ、楽しいのは理にかなっている、と。
身銭を切って(こういういい回しが膝をたたきたくなるくらいのうまさ)書かれた小説、また読んでみたい。
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by soranosanngo | 2016-01-06 15:27 | 読書ノート | Comments(0)

熱にあふれた夏が暮れてゆくときは、ひどく長いように思えるけれど、
過ぎ去ってみればあっけないほど、遠い。

「誰といても寂しいのに/小さな匂い袋を密かに隠し持つのは何故だろう」
「半音さがらないまま共鳴して」(「約束」より)

作者のいる地点をまるで共有しているかのような錯覚を覚える。
遠いのだけど、今の私にとても近い。
いくつもの繊細なフレーズに立ち止まりながら読む。
詩をよむ、ということのたのしさがあふれてくる。
とても素敵な詩集。

夏を想うのには、そのさなかにいるよりも、そこから一番遠い地点、冬、という場所が、実は一番似つかわしい季節ではないか。
まさに今は冬。
夏暮れ、それは人生のある地点のようでもあり、夏を手放してゆく哀しみだけともいえない、美しく豊かな時間のようでもあり。
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by soranosanngo | 2015-12-23 10:36 | 読書ノート | Comments(0)

最近はただ一日を過ごしただけで夜には疲労は蓄積されてしまい、長い本を読むのがおっくうになった。この本は493頁なのだが、自分にとっては珍しく長い本。

死んだ人間が生き返り、復生者として社会にあらわれるという事象が多発する、そんな設定のもと
物語はすすむ。

復生者のひとり、主人公である徹生の死因は自殺ということで処理されていた。
それを知った彼は驚く。自殺なんかした記憶がないからだ。
自分は或る男によって殺されたのだと、その死の真相を探ろうとする。

主人公の男は死んでよみがえるまでの間の記憶がなく「空白」となっていて、
それがタイトルにつながっている。
しかし、普通に生きている人々に、「空白」がないかといえば、あるのだと思う。
例えば、充実している日々を生きている人の心に芽生える不幸を感じる時間に。
(幸福であることを自覚する一方でぽっかりあいた虚無感のようなもの)
人間ってほんと矛盾してるなあ…。
人の心の多様性を「分人」と表現していて、弱い分人を強い分人が消し去ろうとする結果
死ぬという意識はなくとも結果自殺が起きてしまう。
ゴッホの死因についても描かれていたのは興味深かった。
ゴッホの自画像はどれも違った印象だという。まさにそれらが分人だとしたら合点がいく。
けれど「消すのではなくて、認める」のだという。そんな言葉が意義深い。
うつ病による自殺が今の日本で10万人ともいわれているそうで、今日的な問題を提示させながら
ストーリーは面白く、章立てが細かいので私のように一気に読めなくとも飽きさせない。

ただひとつ、徹生が自分を殺した犯人であろうと思い込んでいた佐伯という負の人生観をまとったような男について謎のままだった。
彼もまた復生者であり、実は自分は徹生の死んだ父だと告げたことが本当だとは思えないし、物語の中で真実は明かされていなかったように思う。
だとしたら彼は何者だったのだろう。徹生の分人なのか。それとも幻のような存在か。
何かを語る重要な登場人物だっただけに、気にかかる。

紆余曲折あって、最後に徹生がなにもかもを受け入れたある境地にたったような
ラストシーンの描写にちょっと鳥肌がたった。
「光の驟雨が降り注ぐように、盛んに煌く千光湖の畔に、水鳥に囲まれた璃久と千佳が立っている。」(本文492頁より抜粋)
光がまぶしくて目が明けていられない。そんな経験をしたことが誰でもあるだろう。
閉じた瞼の中で、光がスパークする、そんな実感。
もしかしたら産道を通って誕生した赤子が初めて体験する実感かもしれない。
と同時に命が消えてゆく時も、もしかしたらそんな追体験をするのかもと想像した。
どちらも記憶としては残らないものだから確かめようがない。

少し前、時空モノガタリというサイトで「驟雨」という掌編小説を私が書いた時、生と死を背景にしてひかりのつぶが降ってくるようなイメージを驟雨として表現した。
プロの作家の書いた文学作品に照らし合わせるなどという大それた気持ちは毛頭もないのだが、
勝手にリンクしたような気持ちになり嬉しかった。
(かねてから読みたいと思っていた作家であったので)

2015.12.16
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by soranosanngo | 2015-12-16 16:06 | 読書ノート | Comments(0)

小学生の男の子、女の子の物語。

冒頭にまずひきつけられる。
「フロリダまでは213。丁寧までは320…」名詞と数字の羅列がしばし続き、その数字が男の子の歩幅だとわかってくる。子供は身長が低い分、物理的にいっても地面と近い。そして退屈な通学路も、ちょっとした空想によって愉しくしてしまう遊びの天才なのだ。
「880で大作家。912でフランス人」中略「そしてミス・サンドウィッチまでは、いつだってちょうど950」
前半は男の子と、彼がミス・サンドウィッチと名づけた女の物語。彼女は整形手術に失敗したらしく、ちょっと変わったまぶたの持ち主で(それが彼にそう名づけさせた)もちろん彼は親しみを込めて心の中でそう呼んでいた。
彼女はサンドウィッチの売り子だったが、愛想のないふるまいに怒った客に「顔面改造ブス女」と呼ばれ、それが発端となりひと騒動持ち上がり、結局彼女は店を辞めることになる。
男の子はかねてから彼女のことを「かっこいい大人」だと思っていたので、最後に勇気を持って話しかける。彼女を描いた絵を渡すために。彼女は、結婚してこの街を出てゆくのだという。それが本当かどうかはわからないのだが、彼女は胸を張ってこれからも生きていくのだろうと思った。 
たとえば人と違う容貌や、普通でないところ、障害者と呼ばれるような者に対して世間が優しくなれるとしたら、その人が同情すべき弱者のようなふるまいを持つということに対してという場合が本音のところではあるかもしれない。
けれど彼女は毅然としている。客に対してもおもねない。もともとそういう性格だったのか、それとも何かを経てそこへたどりついたのかはわからないけれど、そこを私もかっこいいと思った。
第二章「苺ジャムから苺をひけば」は男の子の友達の女の子ヘガティが主人公。
ちょっと複雑な家庭で(それは男の子もそうなのだが)それを悩んでいながらも、どこかたくましい独自の視点を持っている、そんな女の子。

子供が語る物語、自分の子供時代のことも思い出されて、どこか懐かしい。
時間的にいえば、もう失われてしまったものだが、きっとこの心のどこかにまだいる、そんな愛しさも同時にわきあがる。
友達や周りの出来事によって少しずつ成長してゆく時間、今思えばそれはとてもゆっくりと自分を取り巻いていたような気がする。過ぎ去ってしまえば、あっというまだったのに。

余談だが、カタカナの名前で登場するだけで、どこか外国の児童文学を読んでいる錯覚に陥った。

読み終わって「あこがれ」というタイトルを自分なりに考えてみる。
男の子にとってそれはミス・サンドウィッチ。徒歩で950歩のところいた人。だけどもういない。
女の子にとっては亡くなってしまったお母さん。だから異母姉を訪ねていったのだが、やんわりと切られてしまう。
どうやら、あこがれ、とは、手がとどかないものらしい。
だけどそれに向かって手をのばすことにこそ、大切なレッスンが詰まっている、そんな気がする。
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by soranosanngo | 2015-12-09 10:31 | 読書ノート | Comments(0)