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トライアングル

 夫婦の形態は、もちろん人それぞれであろうが、夫が家で仕事をする人は、少数派かもしれない。うちは夫が物書きなので、始終一緒だ。結婚する前の私の仕事(小さな出版社で編集者をしていた)仲間からは
「よく飽きないね」
「けんかした時は、どうするの?」
 などと言われるが、不思議なことに飽きることは今だにないし、けんかもしたことがない。
 
 もともと私は夫が書く小説のファンであり、もちろんそれは現在進行形だ。。思えば中学生の時からであるからして、年季が入りまくって発酵してるかもしれない。同級生が、アイドルにキャーキャー言っているのを横目に、作家、如月 周(きさらぎ あまね)に疑似恋愛をしていた。
 
 のちに知るのだが、驚いたことにその名前はペンネームではなく、本名だった。なので、結婚して私は如月弥生(きさらぎ やよい)になる。
 
 ご存知のように如月は二月の別称、弥生は三月の別称で(三月生まれの私に両親がつけた名前)なんとも妙な取合せになってしまったが、それさえも気に入っている。ええ、気に入っていますとも! たとえ、役所で名前を書くと3回に一回くらいは『あのう、これは名前でございますよね』と窓口の人に訝しがられたとしても、だ。(名前でないなら、なんであるというのだ?)
 
 そんな訳で、夫はたぶん初恋の人だったのだろう。彼の描く恋愛小説の結末は、大体において切ないアンハッピーエンドだった。何度泣いたことだろう。まだ未体験である恋愛への妄想は、破裂寸前の風船のごとく膨らんでいた。
 初恋は実らないというが、なんとか彼と知り合うために私は彼の本を多く出している小さな出版社に、大学生の頃からアルバイトするようになり、卒業と同時に就職した。奇跡的に結婚までこぎつけたからいいようなものの、もしそうでなかったら、私は彼のストーカーとして一生を終えるところだった。だから世間でストーカー殺人が報道されるたび、それがまったくの他人事だと思えないのである。アブナイ、アブナイ。
 
 そうして始まった結婚生活だったので、ある一点を除いては、夢のように楽しい。
 
 その一点とは、ひとことで言うと「三角関係」。
 それも人間でなく、猫。白猫でところどころ黒いブチがあり、名前を『なずな』という。夫がまだ売れなかった頃、一面なずなの咲く原っぱで(要はよくある空き地なのだが)拾った、もとは捨て猫を、夫はそれはそれは大事にしていたのだった。なずなを飼い出してから、新人賞を取り、作家としてスタートできたと言い、自分にとって、アゲネコだと信じている。
 
 もちろんメス。をんな。夫とのつきあいにおいて、私は新参者であるから、最初は下手に出ていたのだが、一年たった今も一向になついてくれない。どうやら自分のことを本妻だと思っている節がある。(そしたら私は愛人か?)リビングの一番広いソファに、ごろんと寝そべる様はマダームの貫禄である。私がそこに座ろうものなら
「シャァァァー」
 と世にも恐ろし気な形相で、牙はむきだし、敵意むきだしでとびかかってくる。
 
 かくして夫が仕事の合間などに、そのソファーに座り、なずなとじゃれ合っているのを、私は横目で見て歯ぎしり、もしくはせんべいをバリバリと、やけ食いするしかないのであった。
 
 夫の前では貞淑なマダームを演じているなずなだったが、時々朝帰りしているのを私は知っている。明け方、猫専用ドアがコトリ、というのをいくども聞いているのだ。ネタはあがってンだよ!
 
 もし映画にするなら、なずな役は永遠の小悪魔、ブリジッドバルドーにやってほしい。タイトルは「トライアングル」なんてどうだろう。私はお屋敷のお手伝いで、だんなさまに「奥様、昨晩も夜遊びされてました」とこっそりとチクる役。うーん、あんまりいい役じゃないなぁ。主人公がどんなに自堕落であろうとも、それを魅力的に描くのが映画であるから、ド真面な、面白みのない地味ィなお手伝いになど、観客にはちっともウケナイだろう。
 
 まさになずなは『猫かぶり』を地でいく女なのだ。
 
 そんな女も(いや、猫か)十二歳。人間でいったら、六十代の立派なおばさんである。
 
 つい先日のこと。
 夫がいない時に、急に具合が悪くなり、白目を剥いて痙攣したことがあった。私の中の悪魔がささやく。
『ほっとけば……』
『いやいやいや~』
『気づかないふりしちゃえば……。そしたらトライアングルはめでたく終わるじゃないか』
 しかしすんでのところで踏みとどまり、私の中の天使が勝った。良心といえなくもないが、ほんとのところ、そうなった場合化け猫になるであろう(それは確信ダ)なずなを想像してしまい怖ろしくなったのだ。

 私はすぐさま動物病院に駆け込んだ。なずなは急性腎不全を起こしていて、ほっとけば危なかったようだ。一日入院したのち、翌日夫とふたりで引き取りにいくと、病み上がりの妙に色っぽいなずなが横たわっていた。
 これは、もう「世界の中心で、愛を叫ぶ」ではないか!
 
 夫の胸に抱かれ「アー」とか細く鳴き声を上げる、なずな。私には「アマネー」と夫の名前を呼ぶ声に聞こえる。私なんて夫を今だに名前で呼べず、『センセイ』なのに。く、くやしいぃ。
 『なずな』なんて、ぺんぺん草のくせにぃ。
 なによ、二月三月のくせに、とでも言いたげに、キッと私を睨むなずな。トホホ。

 夫の書く小説は未だにアンハッピーエンドのおはなしが多いが、私の実生活はコメディに近い。コメディというものは、たいていハッピーエンドであろうから(これは私の独断)まあ、いいとするか。

 こんなわけで、二人と一匹の微妙な生活はまだまだ続きそうなのである。
                                   
                           おしまい
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by soranosanngo | 2013-09-25 15:57 | 時空モノガタリ(掌編小説) | Comments(2)

とんかつ日和

 直子に割り当てられた場所は運良く窓際であった。
 
 数日の仮住まいの予定とはいえ、六人部屋で窓際に当たる確立は三分の一。歳末大売出しなどのガラガラで、いつもポケットティッシュしか当たらない(それは参加賞を意味しているので、当たるという言葉は妥当でないかもしれない)直子は考える。こんなちっぽけなことでも、人は運、不運を考えてしまう不思議な思考回路を供えた生き物であると。
 そして幸運に恵まれたと思っていても、果たしてそれが本当の幸運とは限らない。不運もまた然り。
 例えば、この窓際のベッドは陽がさんさんと降り注ぎ、五階の窓から見える人工的に作られたような庭が見下ろせ、いかにも心がやすらぎそうだ。しかし必然的に浴びてしまうであろう紫外線の量はどうであるか。一番多いであろうことは容易に想像がつく。それが最近気になり始めたしみをもうひとつ増やす原因となるかもしれない。
 
 ――幸運と不運は表裏一体のコインのようだ。
 
 そんなことより、ここに入院しているということは、直子と同じような病人であるということだろうから、別次元で考えると、幸運とは程遠い六人である。そこまで考えて直子は顔には出さず、苦笑いした。「直子の理屈っぽいところ、案外好きさ」とかつて言った男のことを思い出したのだ。二年つきあって、別れた。男は既婚者だった。
 それから直子の理屈っぽさを愛してくれる男は現れない。そのせいか理屈っぽいという世間一般からしてみたら、長所とはいえない性格の一端に拍車がかかったような気がしていた。誰かに聞いてもらえれば、どんなへんてこな理屈でも一応は終結するものだ。けれどひとりごとは違う。時間のある限り、自由に伸びていく。豆のつるのように。そして寄りかかるものあれば、巻き付き、それが幸運にしろ不運にしろ、取り込んでしまう、厄介なものである。
 もしこれから先恋愛のない人生を送るとしたら、あれが最後の恋人ということになる。
 始まる時、もう既に、どこか後ろめたさが伴う恋愛だったが、「最後の恋人」そんな称号を与えればがぜんロマンチックめいたものが漂うのはどうしてだろう。玩具箱のなかに無造作に放り込んであった、がらくたのひとつに、帝政ロシアのロマノフ王朝の最後の皇帝ニコライ二世のマトリョーシカだという、ひとつのモノガタリを加えてみればどうか。たとえ眉唾ものだと思ってみても、その価値がたちまちつりあがってしまうことだろう。
 やはり人間は不思議な思考回路を備えた生き物であると直子は思った。

 都会にも自然はある。東京には空がない、などと東京生まれ、東京育ちにの直子は、今まで一度たりとも思ったことはなかった。春になれば蒲公英がほこりっぽい空気の中で咲く。夏になれば新宿御苑の蝉たちはけたたましく鳴きわめく。花は花であり、虫は虫であり、空は空である。
 新宿の病院とはいえ、窓から咲き始めた桜が見えたのもさほど驚くことではないかもしれない。
 直子が下着やら湯のみやら、身の回りのものを、ひと通り備え付けの小さなロッカーに納めていると、直子の弟がやってきた。直子のベッドにたどり着くまで、お世話になります、と同室の人にぺこりとお辞儀しつつ歩いていくる。
「わざわざ会社休んでくれなくても良かったのに」
「いや、どうせ有給たまってたしさ」
「悪いね。あさっての手術の日もお願いね。身内が立ち会わなきゃならないらしいんだ」
「わかってるって。大丈夫だよ、心配しなくても。決算終わったばかりだし。ふうん、わりかしいい眺めだね」
「桜はあんまり好きじゃないけど」
「まあ、そう言うなよ。寝ながら花見なんて贅沢な話だよ」

 五年前に末期の子宮癌と診断され、あっけなく直子たちの母が逝ってしまったのも桜の季節だった。
「ねえさん、お昼とんかつ食べにいこうよ」
「えっいいの? 病院で食べなくても」
「さっき看護師に聞いたら、外出届けを出してくれたらいいですって」
「そうなんだ、案外病院も自由なのね」
「消化器系に病気があったらだめだろうけどさ。今日は入院手続きしたら他にやることはないんだって。明日は手術前の検査がいろいろあって忙しいらしいけどさ」
「やだなあ、注射や点滴されるのかなあ」
 直子は無意識に腕をさすっていた。病院で何度か採血したが、いずれも一度では血管に入らなかったのを思い出していた。そしてそのあと、一週間は青痣になる。青い内出血は次第に黒ずみ、そして黄色くなっていく痛ましいさまは、まさしく病葉のようであった。私の血管も母譲りなのだろうかと直子は思い出していた。入院していた母の腕も同じように青痣が絶えることがなかったのを。

 直子の子宮にはどうやら癌が出来ているらしい。先月受けた検診で見つかった。  
 手術はあさってを予定している。女に産まれたのに、一度もその機能を使わずに捨ててしまうのは、やはり哀しい。四十歳になるまで商社の総合職で頑張ってきたことに後悔はない。結婚を選択しなかったことにも後悔はない。けれど、あの時産まなかったことだけに対しては後悔している。
 もしあの時自分の未来を知ることができたら、産むという選択をしただろうか。シングルマザーとして子どもを育てていく覚悟が持てただろうか。今となっては考えても仕方のないことなのだが、つい考えてしまうのだった。
 けれど命を闇に葬ったことは事実であって、一生自分をさいなんでいくだろうと直子は思っていた。
 子宮癌と診断され、それもまったくの早期ではなく、医者に全摘出を勧めらた時には動揺した。冷静になって考えれば、私に一番不必要な臓器ではないかと強がってみせた。実際のところ、母が同じ癌を患い亡くなったことは、いつか自分もそうなるのではないかと心のどこかで怯えてきたのだった。直子の病名は子宮頸癌なので、原因は遺伝などではなく、ウィルスであるということを知った今でも、なんとはなしに同じ病気に罹った母との符号に、奇妙なものを感じずにはいられない。
 そしてそのことが紛れもない現実となって、不思議なことに、ほっと胸をなでおろす自分に気づいたのだった。いつか癌になるんじゃないかという不安から開放されたのだった。
 そして生きることを最優先にしようと覚悟し、手術で子宮を摘出することを決めた。後悔しながらでも、やはり生きていたい、そう強く思うのだった。

  直子も年子の弟も父の顔を写真でしか知らない。直子がまだ三歳のころ、交通事故で亡くなった。
「ねえ、誰かいい人いないの?」
「なんだよ、やぶからぼうに」
 直子は声をひそめる。
「だって、もしも、もしもよ、手術が失敗して私が死んだら、あんた、天涯孤独よ」
「大きなお世話だよ。そんなに心配だったら、死ななきゃいいじゃんか」
 弟はぷいっと横を向いた。そんなところは幼い頃とちっとも変わっていない、来年には四十(しじゅう)になる男を可愛いなんて思う女は私以外に現れないのだろうか。
 弟がネットで調べてくれた「とんかつ伊勢」は、病院からタクシーで十分ほどだった。新宿のNSビルの二十九階にある。ここでも運良く窓際の席に案内された。
「わー富士山が見えるよ。すごいわ」
「今の時期は空が霞んでるから、こんなにくっきり富士山が見えることは少ないのに、ラッキーだよ、ねえさん」
「富士山、一度くらいは登ってみたかったな」
「退院して元気になったら、連れてってやるよ、いくらだって」
「私、ひれかつ定食ね」
「どうせなら上ひれかつにしなよ、奢るからさ」
「いいの? ありがとう。そういえば、運動会の前の夜は、母さんいつもとんかつ作ってくれたね。ちょっと揚げすぎみたいで、衣が焦げ茶だったっけ。このメニューの写真のように、いかにも美味しそうな黄金色の衣じゃなくてさ。食べ始めると必ず、どう? ちゃんと揚がってる? 生っぽかったらいうのよ、って言ってたっけ。でも、あのとんかつの味は、格別だったっけ。なんか明日は頑張ろうって思えたもの」
「うん。験担ぎだったんだろうね。今だからいうけどさ、あれ、俺は嫌だった。俺、走るの苦手だったからさ。なんだか無言のプレッシャー感じちゃって」
「えっそうなの? いつも美味しそうにたべてたじゃない、あんた」
「いや、とんかつは大好物だったんだけど」
 小学生の時、弟は少々肥満体質だった。おまけにチビでメガネをかけていた。当然といえば当然のように、それをはやされ、いじめっ子たちの標的になったことがあった。チビデブメガネと言われて泣いて帰ってきた弟に直子は
「チビが嫌なら牛乳を飲んで背を伸ばすのよ。デブが嫌なら運動して痩せなさい」
 と言ったことがある。幼いなりの精一杯のアドバイスだった。フルタイムで忙しく働く母に心配かけたくない、口に出して言ったことはなかったが、それが直子と弟の心にいつもあったようだ。それからしばらくは暗くなるまで縄跳びをする弟に、直子も一緒になってつきあったことがある。効果のほどはあまりなかったようだが、中学に上がると、自然に痩せて、背もいつのまにか直子を追い抜かしていった。大学生になって、バイトしてメガネからコンタクトレンズに変えていた。
 チビデブメガネはもう直子の想い出の中の弟でしかない。そして今はもうそのどれも当てはまらないのだった。
「でもさ、勉強は私なんかよりよく出来たよね。母さんの自慢の息子だった」
 そして直子は、弟が優しい心根を持つということを、誰よりも知っていると思った。
 私たちはずいぶん遠いところまで歩いてきたようだ。ふと気づけば、幼かった姉と弟は、すっかり大人になってしまっている。
 人生に勝ち負けがあるとしたら、私は買ったのか負けたのか。いいや、そんなこともういいではないか。一緒にとんかつ食べてくれる人がいる。それだけで幸せだと思おう。
「験担ぎ……そうか、手術に勝て、こと? もしかして」
「今頃気づいたのか? ねえさん、遅すぎ、ていうか鈍すぎ!」
 二人して肩を震わせて笑っていたら、ウエイトレスが注文を聞くためであろう、一点の迷いもない足取りで、自分たちの席のほうへ歩いてくるのが視界に入った。
 直子は目頭に少しだけ滲んだ涙を、人差し指でそっとぬぐい、窓の外に広がる風景に再び目をやる。
 
 東京にもこんなに美しい空があったんだ。
 
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by soranosanngo | 2013-09-24 15:05 | 時空モノガタリ(掌編小説) | Comments(2)

夕立ち

 雨の匂いがする、と塔子は思った。
 
 
 塔子は昔から極度に嗅覚が鋭いところがあって、いい匂いにしても、そうでない匂いにしても人より早く、強く匂ってしまうタチらしい。
 
 匂いというものは、歓迎するしないにかかわらず、、勝手に向こうからやってくるのだから仕方ない。
 ああ、何かに似ている。そうだ、恋はたぶんこんな感じだったんじゃないか。かつて恋をしていた時のことを思い出した。
「あの頃、私は確かに恋をしていたに違いない」
 ミュージシャンを夢見ていた男を追いかけて、せっせと言われるまま、お金を工面していたが、気づくと総額が五百万円を越していた。OLだった塔子の貯金はほぼ0円。5年越しの恋はあっけなく冷めた。
 
 塔子は結婚してそろそろ一年になる。
 夫とは友人の紹介で出会い、一年の交際を経て結婚した。「夫にちゃんと恋していたんだろうか」心の中でつぶやいてみる。
 地方公務員という安定した職業に惹かれただけなのではないか。もちろん性格も良さそうだというのはあったが、そこに打算がなかったとは言えない。
 
 今思うと三十歳を目前にして結婚をあせっていたのかもしれなかった。一年経てば、女としての価値が下がってしまうのではないか。暴落する前に、なんとか……そんな気持ちが働いたのは正直なところだった。
 
 結婚して少し太ったのか、サイズがゆるめでくるくると指で回っていた結婚指輪が、今ではしっくりと指に収まっている。はずそうとすると、第二関節のところで、止まってしまい、かなりの痛さが伴い、難儀する。きっともう一年もすれば、用意にはずせなくなるのではないか、どこかであせりにも似た、恐怖が襲ってくる。このままでいいのだろうか、と。
 
 犬は人間以上に嗅覚が発達しているというが、実はその嗅覚に蓋が出来るというのは本当だろうかと、塔子は新聞で読んだ記事を思い出し、実家で飼っている犬のマロンに無性に会いたくなった。
 マロンは塔子が高校に入学した時に飼い始めた犬で、結婚を機に家を出た塔子にとって、たまにしか会えないので、可愛さが募る。
 夫は犬アレルギーで、一緒に実家を訪れたあとは、一日せきが収まらなかった。「あの犬、キャンキャン吠えやがって。いったいいつになったら俺のこと覚えるんだ」帰り道、運転しながらそんな風に言う夫の横顔は見知らぬ男のようによそよそしく感じられた。
 
 雨の匂いが強くなってきた、と塔子は思った。
 
 降ってくる前に洗濯物を取り込んでしまおう、とベランダに出た。一枚一枚パジャマや下着はもちろん靴下の類まで裏返して干しておいたのをまた丁寧に表に返す作業を繰り返す。虚しい家事ロボットだ、とひとりごちた。
 結婚して半年ほどした頃だろうか、夫のパジャマのズボンに蜂が入っていたことがあり、怒った夫は塔子の頬を打った。
「おまえは亭主を殺す気か」
 激高して鬼のように真っ赤になって夫は怒った。夫がまだ小さい頃、近所の人が蜂に刺されてアナフィラキーショックで亡くなる事件があり、それからというもの、極度に蜂を畏れてきたらしい。
「ごめんなさい、気づかなくて」
 それだけ言うとあとは言葉にならなかった。
 親にも頬を打たれたこともなく、暴力に免疫がなかった塔子は、痛さより、その衝撃にただ驚き、涙が止まらなくなってしまった。

「泣きたいのはこっちほうだよ、これからは気をつけてくれよっ」
 それから塔子は洗濯物を裏返して干すようになった。アナフィラキーショックというのは二度目が危ないらしい。

「あっ」
 裏返した夫の白いシャツの袖から、ポトリと何かが落ちて、それからぶうんと羽音を立てて飛び去った。
「嫌だ、蜂だわ」
 もしまた夫が蜂に刺されたりしたら、ひどいことになっていただろう。それとも……。塔子は夫が胸をかきむしって倒れる姿を想像した。心がどこまでも冷えていくようだった。
 それから間をおかず、雨がやってきた。
 ザー……。
 
 大粒の雨に打たれたまま、しばらくそのまま動けずにいた。胸の中に湧いた黒い感情に蓋をする術を、塔子は知らなかった。
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by soranosanngo | 2013-09-24 13:23 | 時空モノガタリ(掌編小説) | Comments(0)

京都「さまよえる鬼」

「こわいよ、かかさま」」
「またこわいゆめをみたのね。だいじょうぶよ、かかさまがそばにいるわ」
   ◇
 小さな灯によって浮かび上がったその影に、ふたつの角があることを子はまだ気づいてはいない。
 ほんとうの鬼は、夢のなかに棲んでいるのではなく、現実のなかに棲んでいることをまだ知らない。
   ◇
 わたくしのことをお知りになりたいのですか?今はこんな姿に成り果ててしまいましたが、もとはおひいさま、と呼ばれていた時代もあったのです。
 南蛮渡来の金糸雀とともに唄い、螺鈿細工の小箱のなかに美しい日々の栞をおさめては眺め愛でていたものです。
 人の運命の儚さを知ったのは、父上が謀反の罪をかけられて、一族郎党、自分が何者かもわかっていない乳飲み子までもが無慈悲にも囚われ、三条河原で首をはねられた時です。
 そのとき、河はわたくしたちの血で真っ赤に染まり、
のちに赤い川魚カワウオが採れたそうです。
 首はそのまま捨て置かれ、蛆が湧き、醜く腐敗し、風雨にさらされ、最期は白い骨となり果てました。
 そのままわたくしは鬼となり、このように現世ウツシヨを彷徨ってサマヨッテいるのでございます。
 人の心のほんの隙間に生まれた、どす黒い感情を渡り歩いて、生きながらえているのです。
   
    ◇
【case1】
 北国のマンションで姉妹が死んでいるのが発見されました。
共に四十代で妹が二ヶ月ほど前に脳内出血で病死、姉は一ヶ月ほど前に餓死と凍死が原因で亡くなったと考えられています。
 既に両親は亡くなり、知的障害を持つ妹のめんどうをみながら姉は働き続けていましたが、相次いで仕事先は倒産しました。
 失業保険の給付も終わり電気ガスが止められ、今日食べる米さえなくなりました。困った姉は福祉事務所に相談に行きましたが、役人は
「あなたまだ若いのだから、働きなさい」
と言いました。
 雇ってくれるところがないのです。それともカラダでも何でも売って、お金を稼ぎなさいという意味ですか?
 今日食べる米さえない者はほんとうに困った人ではないというのでしょうか。
 ほんとうに困った人に手を差しのべるのが、福祉ではないのでしょうか。
 生活保護は申請しなければ受給できない制度だそうですが、その申請の仕方を教えてあげることはできなかったのでしょうか。
 ほんとうに困っていた姉は二週間分の缶に入った非常食用のパンを渡されただけでした。
 コンビニでは賞味期限の切れたまだ食べられる大量の弁当が毎日破棄されます。
 けれどこの飽食の日本で餓死する人がいることは、事実なのです。
 すべては鬼のなせる仕業なのでしょう。
こ うして鬼は息絶えることなく密かに命長らえているのです、今も、今この時も。鬼が人を殺しているのです。
   ◇
「こわいよ、かかさま、おにがおいかけてくるよ」
「またこわいゆめをみたのね。だいじょうぶよ、かかさまがそばにいるわ」
   
    ◇
【case2】
 母親は幼い子供の細い首に手をかけた。
 おまえさえ、いなければ、私は幸せになれるんだ、と。

 今日の よすがに 鬼がまた人を殺す。
   
    ◇
「こわいよ、かかさま、おにがおいかけてくるよ」
「だいじょうぶだよ、もうおまえも鬼になったのだからね」
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by soranosanngo | 2013-09-24 13:20 | 時空モノガタリ(掌編小説) | Comments(0)

リトル マーメイド

 
 寝返りをうった瞬間、冷たいものが手に触れた。
 なんだろう。
 おれは、暗闇の中、目をこらす。
 
 「メイ? メイなのか?」

 ばかな……。

 ベットサイドの窓枠が風でカタカタと鳴った。
窓を閉めているはずなのに、カーテンがひゅううとめくれあがる。ふいに月光がスポットライトのように、さしこむ。その光が照らした先に白い女の顔が浮かび上がった。
今しがた海から帰ってきたようにびっしょりと濡れていた。眼はしっかりと閉じられている。
 心臓が大きく波打った。
どくん。
「メイ、生きていたのか?」
いや、そんなはずはない。

 だって、おれはあの時、城ヶ崎のつり橋の上から、おまえを突き落としたんだから。


 落ちていく瞬間、なぜかおまえはにっと笑った。確かに笑った。
おれはそのまま、つり橋の上でへたり込んでいた。おかしなことに水面からは、なんの音もしなかった。
 
 おまえがおれと別れるって言い出したのは、大室山へゆるやかに登るロープウェイの中だった。
「もう、疲れた。私、やっぱり結婚したいの。あなたがしてくれないなら、他の人とする」
「おれを困らせないでくれよ。愛しているんだ、メイ」
「もう、いいよ。あなたは奥さんとは別れられない」

 それきりメイの手は、動きを止めた。メイはしゃべることができない。おれたちの会話はいつも手話を通して行われていた。

 その夜おれたちは、城ヶ島へ向かった。
 

 メイ、おまえと初めて出会った城ヶ崎海岸。
  
 東京からスキューバダイビングの体験ツアーに来ていたおまえ。最初から堂々として、あんまりうまく潜るものだから、インストラクターのおれはちょっとびっくりした。初心者は重い機材を背負っていても浮力のせいで、なかなか深くは潜れないものなのだ。
 しかし、おまえは、苦もなく、自然にやってみせた。水を得た魚……なぜだかそんな言葉が浮かんだっけ。

「本当に初めて?」
 陸(おか)に上がっておまえに聞いたっけ。無言でうなずくおまえに言い知れぬ懐かしさを感じたのはなぜだったのだろう。髪からしずくが落ちて、おまえの頬に落ちた。笑っているのに、泣いているように感じた。それからほどなくして二人は一緒に住むようになった。

 けれどおれにはどうしても別れられない妻がいた。妻は病院のベットでもう3年も眠ったままなのだ。

 どうしても別れるって言い張るから。こんなに愛しているのに。愛しているのに。愛の顔がくるりと悪魔に変わった瞬間、憎しみが両手にあふれてきて、おれはメイの首をしめていた。そうして無我夢中でおまえをつきおとしたんだった。

 そこでおれの思考が止まった。
 傍らの女の瞳がかっと見開き、その手を伸ばしておれの腕をつかんだからだ。
「うわっ」
 その手には、びっしりと銀色の魚のうろこがあった。驚くほど冷たい。おれは逃れようと必死にもがいた。けれど身体が金縛りにあったように動かない。

「タ、タス、ケ、テ、ク…レ……」
 声にならない声はのどの奥にひっかかり、錆付いた鉄くずのように、役立たずのまま、落ちていった。
    
    ◇  ◇  ◇

 そして目覚めた。
「ああ、夢だったのか」
 全身汗だくだった。メイを突き落としたことも夢であればよかったのに。後悔が激しくうずまく。
 いや、あれは現実だ。けれど、あの、ひんやりとした腕の感触はとうてい夢とは思えないほど、はっきりとこの腕に残っている。

 おれは自分の腕をこすった。そしてざらつくものを感じた。

 まさか。

 部屋の明かりをつけると自分の腕にびっしりと魚のうろこのようなものがはりついていた。ごしごしこすってみる。
 取れない。
 取れないどころか、それは貪欲な悪魔の細胞のように、少しつつ広がって、その陣地を延ばしている。

 ぴちゃん。

 傍らの水槽で飼っている金魚がはねた。
 よく見ると、それはメイそっくりの顔をした金魚で、眼が合うと、にっと笑ってこう言った。

「バイバイ、王子様」
 
 初めて聞いた君の声。
 クリスタルの鐘を鳴らしたような響きだった。メイ、美しい声を持っていたんだね。

 朝が来て、飼っていた金魚が、お腹を見せて水面に浮かび上がり、死んでいた。

                                  おわり
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by soranosanngo | 2013-09-24 13:15 | ホラー小説 | Comments(0)

かごめ かごめ

こんな風にブランコに乗るなんて何年ぶりだろう。大人と呼ばれるようになってからは、たぶん初めてだろう。

 キイ、キイ、キイ

 やる気なくこげば、ブランコだってやる気は出ない。子供のころはブランコをもっと激しくこいで、「えいっ」とはずみをつけて飛び降りるのが、たまらなく好きだった。
 もちろん、少しこいだだけで飛び降りるのは、それほど、楽しくない。こんなに高くこいで大丈夫か、と不安になるくらい高くこいだところで手を離すのだ。

 ふわり。

 空中で静止したような感覚にとらわれる。重力から解き放たれる一瞬。今でもスローモーションのようにその感覚がよみがえってくるようだ。
 けれども、その直後すぐに落下するので、気を抜くと怪我をする。小学生の生活は平凡で退屈な繰り返し。それにほんのちょっぴり色をつけるスリリングな遊びだった。
 昼ごろまで降っていた雨が小さな水たまりとなってブランコの下にも、たまっていた。私はそれに足をとられないよう、慎重にブランコをこぎ続けた。


 この水たまりはいつしか空中に蒸発して、影も形もなくなるんだろう。例えば愛だと思っていても、そんなもの、まぼろしだったというように。

 半分くらいは静かに地面に吸い込まれていくのだろうか。その先は? 暗い世界に同化するのだろうか。暗い世界に愛が同化してしまったら、それはもう愛じゃなく、ただの出口のない闇なんじゃないか。
 そんなことを考えるともなく考えていた。
 平日の夕暮れにこんな風にぼんやりとブランコに乗る大人ってどう思われるのかな。不似合には違いない。
 あそこで遊んでいる小学低学年であろう子どもたちに、もし話しかけたら、不審者扱いされかねないだろう。

 あれはなんだっけ。
 かもめ、かもめ? 
 いや違う。「かごめ、かごめ」だ。

 手をつないで円を作り、その中に鬼になった子が入ってしゃがむ。自分の手で目隠しし、歌が終わるのをじっと待つ。そんななつかしい遊び。



 かごめかごめ
 かごのなかのとりは
 いついつでやる
 よあけのばんに
 つるとかめがすべった

 うしろのしょうめんだーあれ

 そして円の動きが止まる。
「××ちゃん!」
 鬼は友達の名前を呼ぶ。ちょうど後ろにきた子が××ちゃんであれば、鬼は交代。

 しばらく子どもが繰り返すその遊びの風景をながめていた。するとあることに気づく。
 全部で7人の子どもがいるのに、ただ一人だけ、名前を呼ばれない。その子が後ろにくることはなかった。
 なぜなのだろう。もしかして鬼になりたくなくて、微妙にズルをしているのかもしれない。
 けれど、永遠に名前を呼ばれないというのも、それはそれでつまらないものではないだろうか。ある種、この遊びでは鬼が主役であるのだから。



 結局私は主役にはなれなかった。
 あの人は別の子を選んだ。アパート代、ケータイ代から、歯医者の診察代。
 あの人に乞われるまま、その手のひらに、お札を置いた私。

「悪いね」
「給料日に返すから」

 それが実行されることは一度としてなかったけれど、あの人に求められていると思えば、それが愛だと思ってしまった。
 いつかあの人が私のことを
「なっちゃん!」と呼んで主役に選んでくれるのを待っていたのに。
 待っていたのに。
 待っていたのに。
 
 もう待てない。

 最後にあの人に渡した5千円札は、だれかとのデート代に消えたんでしょう。


 公園に立っているスピーカーから、懐かしいメロディが流れ始める。このメロディは、たしか家路、だったっけ。それを合図に小学生たちが帰り始める。

「バイバイ」
「また明日ね」

 三々五々、入り口から出ていく。さあ、私も帰ろうか? でも、どこに帰ったらいいのだろう? 

 夕闇が一気に公園に流れ込む。
 隣のブランコが揺れる気配。

 お下げ髪の女の子がブランコに乗っていた。ああ、さっき、「かごめ かごめ」で遊んでいた子だ。しかも一度も名前を呼ばれなかった子じゃないか。
 女の子は私の視線に気づき、にっと白い歯を見せて笑った。

「おねえちゃん、帰らないの? 迷子になっちゃったの?」
 
 どぎまぎした。
 そう、私は迷子になってしまったのかもしれない。もうあのアパートには帰れない。だって、だって……。
 私は手のひらについた赤い血を見つめた。もうだいぶ乾いて赤黒く変色している。

 あはは、スカート飛び散った血がなんだか水玉模様みたいだ。
 あの人の背中に私が刺した包丁についた血も、今頃こんな風に乾いているだろうか。
 
 女の子はそれからもうれつな勢いで、ブランコをこぎ始める。
「ちょっ、ちょっと、あぶないよ……」

 あっという間にブランコから手を放すと、水たまりに落ちた。
 落ちたはずの女の子はそのまま水たまりに吸い込まれていった。最後に私のほうを見て

「なっちゃん!」

 と私の名前を呼んだ。
 ゆっくりと沈み始め、最後は右手だけが残り小さくゆれた。手をふっているみたいだ。いや、それとも、おいで、おいで、と呼んでいるのだろうか。



 私はおそるおそるその水たまりを覗き込む。

 女の子を飲み込んだ水たまりは小さなさざ波を立てていた。血を洗おうと思い立ち、私は水たまりに手をひたす。
 するとさきほどの小さな手が水の中から現れて、へびが鎌首を持ち上げるような恰好になった。
 手首をつかまれる。
 一分の隙もないほどの、
 すごい力。
 あらがうこともできず、私は水たまりの中に引きこまれていった。
 
 

「うしろのしょうめん、だーあれ」

 どこかでだれかの歌う声がする。そうか、ここは鬼の棲む場所なんだね。私も今日からここに棲もうっと。

      ◇

 翌日早朝、公園の水たまりで女の溺死体が発見された。
 警察はその女の内縁の男がアパートで殺されていた事件との関連性を調べているという。
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by soranosanngo | 2013-09-24 13:12 | ホラー小説 | Comments(2)

月と王国

ある満月の晩、女友達が私の家にやってきた。シャンパンを片手に。何かのお祝い? と尋ねたら「まあ、そんなようなもの」とほほ笑んだ。酔っぱらうと虚言癖のある彼女は「やっとわかったの。わたしは王女さまだったの」と言った。「さて、もう寝る時間よ」といつものように私は取り合わなかった。

ほんとのところ彼女が友達なのかというのはまったくもって疑わしい。彼女の住所や電話番号を私は知らないし知りたいとも思わない。(もっとも友達の定義というものを私は正しくは知らなかった)彼女は平然と人の彼氏さえ盗ってしまうことのできる女なのだ。彼女のルールによると、それは罪ではないらしい。
それでいて何年か後、ちょうどいい具合に過去が薄まった時に、まるでそのことがなかったように私の前に現れるのだ。

朝起きて昨晩は一睡もできなかったと彼女が言う。まるでその不眠の原因が私のせいだといわんばかりの口調で。何かとても寝心地が悪かったの、と。お客様布団まで出してあげたというのに。

彼女がピンクのキャリーバックをがらがらとひきずりながら出て行ったあと、敷布団の下から一枚の紙切れが出てきた。それは私がいつか書いて、書いたことさえ忘れていた詩のかけらだった。
 孤独。
それはとてもうすい、のしいかのように成り果てた孤独だった。見方を変えれば、一枚の青い羽だった。本体が飛び去ったあと残されたもの。
昨晩彼女はこんな薄っぺらいものの存在を、その背中であたかも固い石であるかのように感じ取り、結果眠れなかったのだと知る。
彼女はもしかしたらほんとうに王女さまなのかもしれない。失われたどこかの国の。

或いは月の血筋の。

安眠できる寝床に、王女さまがたどりつく日は来るのだろうか。



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by soranosanngo | 2013-09-15 14:53 | モノガタリ詩 | Comments(0)