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  セーターにふゆの嵐を編み込んで君はひとりの夜を耐へてをり(笹井宏之)

 結句の「夜」を最初、「よる」と読んだら、おさまりが悪かった。それならば、「て」を取って「耐えをり」にすればいいのでは? と不遜な事を考える。しかしそうすると、現在進行形という景色が失われてしまう気がする。それではこの作品の持つ共感性が失われてしまうだろう。
 ああ、そうか、「よる」ではなくて、これは「よ」と読ませるのだ! そして、ふたたび声に出してとなえてみる。すると「よ」が「世」に変わった。そんな私だけの答えにたどりつく。

 だから、うたって面白い。
 
 この作品のまなざしが好き。「ひとりの夜」つまりふゆの嵐さえも孤独に比べたらなんのことはなくて、編み込むモノが尽きれば嵐さえも編み込み、
 そんな寄る辺のない時間を過ごした「君」を、
 もしかしたら今、そうやって過ごしている君を、
 遠くでみつめるようなよりそうような作者のまなざしが、とても好き。
 作者はおそらくそんな孤独というものをすでに知っていて、知っているからこそ、またはその渦中にいて、渦中にいるからこそ、セーターの代わりに、うたを編んでいるのだろうと想像する。
 
 うた、というものは、作者の命がなくなってなお、人に心がある限り、命ながらえるものであるなあとしみじみと思う。

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↑サン・ピエトロ大聖堂の最上階で買った壁掛け
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by soranosanngo | 2015-02-26 08:58 | 読書ノート | Comments(0)

グレープフルーツ

売れ残りの
グレープフルーツを
レジを閉める前に必ず買うの

これは家に帰るために必要な
いっときの お守りみたいなものよ

グレーフルーツって
十三番目の月みたいじゃない?
完全な円じゃなく
どこかが
すこうし
不器用だからゆがんでる

気配を感じてふりむいてみれば
空の月だった
月もかけがえのないひとりぼちだから?
キミも孤独なんだねって手をふった

あばらやの部屋の電気のスイッチを押すまで
月を胸にかかえてたら
それだけでさみしくないの

孤独と孤独は掛け合って
もしかしたら
二倍に増えるかもしれないけど
引き合って
優しくなることもあるんじゃないかな

翌朝 冷蔵庫の中で
略してGPはすっかり果実に戻ってて
あたしはむしゃぶりつくように
食べるの
食べてしまえば
いろんな事情が
剥かれた皮みたいに
ひどく軽くなるを知ってるわ
ああ、すっぺぇ!

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この詩は第十六回白鳥省吾賞に初めて応募して、最終選考に残るも、あえなく散った作品です。
こんなこと言うと誤解されそうですが、評価は評価であって、自分自身のこの詩の愛おしさについてはなんら変わりないです。もちろん落選するには理由があるのだし、ここからもっと精進していかねばという気持ち前提で。
悔しかったら、自分を磨け!(by ハルキ ムラカミ)
磨き方は自らのやり方で!(by さんご)
付け加えておけば、最優秀賞をお取りになった、花潜幸さんの作品、とても素晴らしいものでした。

今、服用している薬のせいで、グレープフルーツは食べることが出来なくて、そうなると無性に食べたくなるというのは、愚かな人間のさがなのでしょうか。
それの代用といってはなんですが、無印良品のフレグランス「シトラス」を愛用したりして。甘くはない爽やかな、すこし苦味が感じられるような匂い。変に残らないのもグッド。
柑橘類一般の果実の匂いをかいでいる時は、鼻腔もろとも心も至福に包まれます。
本物でなくてはならないということは時にとても苦しいもの。
詩中のグレープフルーツもまた月の代用品であったのかもしれないし、代用品さえなかったとしたら、きっともっと人生は悲しい。

学生時代(まだコンビニがなかったと思う)夜10時まで営業しているスーパーでバイトしてた時の体験を基にしております。

2015.2.22

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by soranosanngo | 2015-02-22 14:18 | | Comments(2)

ささがきと鉛筆削り

 ささがきに思い出すのは小刀で鉛筆削った美術室/午後

ごぼうのささがきは、どこか鉛筆の芯を削ることに似ている。
違っているのは、ごぼうに求めるものは皮と実の部分であって、鉛筆に求めるものが芯の部分であるかの違いだろうか。
おそらく鉛筆を使い始めた幼児の頃から、鉛筆削りなる便利なものがあったので、高校生の頃に、美術の授業で小刀を使ってそれを削るのは、初めての体験だったと思う。
力を入れすぎれば、鉛筆の断面は無残にえぐれる。
力を抜きすぎれば、それは肝心の芯のところまで到達出来ない。
力加減というものは、実に難しい。
鉛筆の六角形にそくした二等辺三角形を切り出し、その先に長過ぎもせず、さりとて短か過ぎもせず、書くことに適切な長さに切り出した「芯」を、創り出すというこの技は、初心者にとって、ものすごく難しい課題だった。

当然のごとく、私の作品は不可であったため、その夜、家で鉛筆を削っていたのは言うまでもない。

けれども私がそうやって一生懸命になった鉛筆は、その先にある「絵を描くこと」その目的のための手段、でしかなかった。

おそらくこの二十年、ほぼ毎日といっていいほど包丁を握ってきたと思うのだが、だからといって熟練にはまだ程遠い。
 

 水を張った銀色のボオルに沈んでゆく、ごぼうの断片。
 躊躇なく彼らは、アクを吐き出す。
 半円の世界は、うすく色づき、次第に錆色に変色していった。

ごぼうのささがき、今日のおかずのひとつであるきんぴらごぼうのための手段、でしかないけれど、それらが美しいと、誰かから「可」をもらったようで嬉しくなる。

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by soranosanngo | 2015-02-21 11:52 | 珊瑚の気まま日記 | Comments(0)

「星々たち」桜木紫乃

九篇の短編が、読みすすめていくうちに全てが微妙につながっていることがわかってくるという構成の小説。
星のひとつが、ひとりの人であるとしたら、それをつなげて出来る星座のような小説だと思った。
それも綺羅星のような一等星ではない。今にも消えてしまいそうな、それでも懸命に与えられた身の上を生きようとしている、弱々しい光の星。もがいているようにも、見える。
生きづらい時代だからこそ。
夜の空に、もしそんな星を見つけたら、人は何を思う、のだろうか。

登場人物のほとんどが、世間一般の尺度の幸せからは程遠い身の上を生きている。
たとえば人を殺してしまって逃げている男とか。
その中で、夫婦の間の埋まることのない溝を持つ女(その女の息子は千春と結婚し、生まれたやや子を育てることになるのだが)は、命から逃げることなく、自らの手で育て上げる。彼女は理容師で、手に職があるということの絶対的な強みがあるのだが、それを差し引いても、すさんだ物語のなかにおいて、ほっとできる箇所であるような気がする。

これまで私が読んだ桜木さんの小説の舞台は、どれも北海道だった。
最終章の「やや子」の中に、「道東はネギも育たない場所」という描写がある。関東の海辺の穏やかな場所で育ち、それから移り住んだところはみな、ぬくぬくとした場所であった私には想像を超えた厳しい自然があるのだろうと思う。ネギは土に植えておけば、いくらだって根を生やし、成長する強い植物だと思ってきた。
けれど北海道の厳しい自然環境では育たない。「置かれた場所で咲きなさい」と言われても、ネギにとってそれは出来ない相談。
この本の主軸とも言える二人の女に、欠落、もしくは希薄なのは、母性なのだろう。けれどそれを責める気にならないのは、おそらく二人共、置かれた場所で咲くしかなかったからだと思う。


だとしても、千春という女が哀れだ。哀れで、実に強い。
彼女が母親からもらったものは、千の春、美しい名前だけだったのだろう。果たして咲子という母親は、それにどんな願いを込めていたのだろう。

「尖っているから皮膚に刺さったんでしょうけど、こうして体から出てくるときは角が取れてるんですよね。頭の中で丸くなるっておかしいですよね」
これは交通事故で片足を失った千春の後遺症――顔に突き刺さった硝子片で、手術で取り除けなかったものが時折出てくる時の、彼女の台詞である。何かを示唆しているようで、思わず何度も読み返してしまった。こういうところが、本当に巧い作家だと思う。
彼女が最後に向かう場所とは……それが明かされてまたしても私は唸った。

困ったら誰かが助けてくれると言い切る彼女の生き様を、他人に依存するばかりの人生なんてと眉根をひそめることは簡単だ。けれどもそう開き直ってしまえば、「生きていく」ことだけが人生の目的になり、あれこれ思い悩まずとも、生きていくことを実にシンプルに肯定できそうだ。

タイトルの「星々たち」という言葉が、本編の中で出てくる。その時、読者はきっと「あっ」と思うだろう。

彼女はその硝子の破片を、薬の空き瓶の中に蒐集している。

まるで自分が生きたことの、ささやかな証のようにして。

2015年、2月読了。
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by soranosanngo | 2015-02-19 13:13 | 読書ノート | Comments(0)

2014年のクリスマスプレゼントにいただいた詩集。
うすいトレーシングペーパーから、微かに見て取れる桜模様。
西原さんの手作りであるこの詩集のそんな表紙は、彼女のセンシティブな心模様そのもの、という気がする。

主婦ならではの目線が私自身をもシンクロさせる、「濡れたうろこ」。

「かげろう橋」の、生と死の境界線のような場所で
せめて
うたかた を
とことわ に変えたかった

けれど嘆くでもなく、みしみしとその橋を渡ってゆくのだ。

「夜が始まる場所から」の一節
上り階段なのか 下り階段なのか 分からなくなる
では
それでも生きていかねばならないことへの
苦しさを滲ませる。
それに思い当たる読者もいるのではないだろうか。
もちろん私もその一人。

「春嵐」は、詩と思想投稿欄において、入選された、私の好きな作品。
いっけん穏やかな春という季節に、内包された嵐のような命の重さを、鮮やかに描いてみせる。

「毛糸玉」に込められた愛猫の記憶。
そういえば猫と毛糸玉といえば、私も過去に「雨とプッチと毛糸玉」という詩を書いたことがある。
私が実家にいる頃、家に迷い込んできて、そのままいっとき居着いた猫を思い出して、書いたもの。あるひ、家出して、そのまま行方知らずになった。
西原さんに愛された猫は、とても幸せな猫であったのでしょう。
それはとりもなおさす、猫が愛した西原さんも、幸せな人であるのだと思う。

最後のページに記された言葉はまるで
パズルのようでいて
まじないのようでいて
ふと口ずさんでしまうような
ひらがなのうたのようでいて
どこかこの詩の核にある「弔い」に
つながっているような気がしてならない。

とことわのうたかたを
うたかたのとことわを

真奈美さん、素敵な詩集をありがとうございました。
勝手な感想をおゆるしください。

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by soranosanngo | 2015-02-18 14:21 | 読書ノート | Comments(0)