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半月の照らす路

曲がり角で
まるでわたしを待っていたかのように
飛び出した
黒猫

ブレーキ

轢かなくてよかった

心臓の音が近い

命をかけても
渡りたかった
そのわけは
なんだろう

黒猫にしたら
そんな悲愴な決意など
はなからなくて
まして
大切な約束など
だれともしていないのだろう

わたしはどのくらい渡ってきただろう

半月の照らすほのくらいこの路を
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by soranosanngo | 2015-10-23 09:17 | | Comments(0)

初めて短歌の詩誌を読んでみようと思ったのは、その表紙に「河野裕子の魅力」と書かれて、彼女の特集が組まれていたからだ。
私が短歌を作るようになった始めの頃、河野裕子さんという人を知った。

好きな短歌はたくさんありすぎて、でもやっぱり今はこれかなと思う。

「さびしいよ息子が大人になることもこんな青空の日にきつと出て行く」(河野裕子)

産まれてから同じ家で生きてきて、成長して独り立ちしてゆくことはよろこばしいことなのだろうけど、やっぱりストレートにさみしいことなのだろう。青空は祝福のイメージだけれど、見送る側にとってはさみしい明るさを含んでいる。
巣立ってゆくときの万感が胸にこみあげてきて、この句に触れると
私はいつも泣きたいような心持ちになってしまう。
実際のところ、息子はもうすぐ二十歳になるので、そんな日も遠からずと思う。

世の中には、すばらしい短歌がたくさんあるのだなあと感嘆する。
歌人の感性って、よく研がれた刃物みたいに、日常を切り取っているのだなあ、と。


最も印象深かった2句を書き留めておきたい。

「食卓をしずづけさとししづけさの光源におく桑の実のジャム」(渡辺松男)

実家にあった一本の桑の木を思い出した。それはおそらく母が実家から移植したものではないかと思う。
母の実家は群馬県で、今はもうやっていないが、昔は家業の副業として、養蚕をしていた。
蚕は桑の葉を食べて育つ。あんなにごわごわともそもそした葉を食べるなんて、と思うのだが
蚕が白い絹糸を吐き出すための秘密が隠されているのだろう。
桑の木を見て、母は何を思ったのだろうか。
桑の実は小さくてきれいな赤い色。そのジャムを食べたことはないが、苺のジャムなどとは違い、一般的ではないので、おそらく手作りのものだと想像できる。
そんなつつましやかなジャムを光源にした、食卓の静謐のあたたかさが伝わってくる。

「服を着ても少し震えているチワワどこへ行くのだろう旧姓は」(北山あさひ)

こんなふうに詠んでみてもいいんだって目からウロコかつ楽しい!!
結婚して20年、ほんとうに旧姓ってどこ行っちゃたんだろうって思う。

というわけでこんな句を今朝つくりました。一応、返歌みたいなかんじで。

「だれとも手をつながないでどこへゆくつもりなんだろう、いいえ、どこへも」(そらの珊瑚)



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by soranosanngo | 2015-10-22 12:07 | 珊瑚の気まま日記 | Comments(0)

部屋の中は、もうすでに冬だ。
(私は猫なのである)
ヒートテックはいうまでもなく、靴下の二重履きも加える。
高校生の娘が去年まで制服の下に着ていた、
ラムウールのカーディガンがちょうどよい暖かさだ。
高校はブレザーの下に着るセーターも
学校指定でなくてはならないので
私が着なくなれば、きっともう着ることもないものだ。

そういえば実家の母は、私が着なくなった中学校のジャージを
パジャマ代わりに着ていたことがあったっけ。

学生でいる時間は短い。
ジャージもセーターも、くたびれるにはそれはとても短くて、
あっという間にこどもたちは、卒業してしまう。

外へ出てみれば、秋のひだまりは暖かく、一枚脱いでもよいくらいだ。
まさに小春日和。
小春日和が秋を表す言葉だと知ったのは中学生のころだったろうか。
秋が見せる春は、暖かいけれど、それが冬へ向かっていることを想えば
小春という形容がぴったりくる。

家の中と外、どちらがほんとうの温度だろう。
きっとどちらも今、必要な温度なのだろう。
うちの犬の夏毛の下で、おそらく冬毛が準備を始めている。

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by soranosanngo | 2015-10-16 11:49 | 珊瑚の気まま日記 | Comments(0)

詩を書き始めて、5年ほど経っただろうか。
詩を書くもうひとりの私に、どこかささえられるようにして歩いてきた5年だったともいえる。

このたび、第11回「文芸思潮」現代詩賞の佳作をいただくことができました。

とても嬉しい出来事であり、評価してくださった方々にお礼申し上げます。

私以上のものはきっとこれからも書けないだろうけれど
息をするように、詩を書いていけたらいいなと思う。

それが嘘のようにあっけなく
しぼんでしまうことが約束されたスフレのようなものだとしても。

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それにしても左奥歯が痛い。この二日ばかりヨーグルトとバナナでしのいでいる。
あとはお粥だとか。
離乳食の詩が書けそう♪
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by soranosanngo | 2015-10-15 12:32 | 珊瑚の気まま日記 | Comments(0)

 それまで
 水の中を泳いでいたものが
 産院のベッドの上で
 あし。になる
 それはまだ
 自分を支えることも
 出来ないけれど
 あし。と呼ばれる

 ああ、これは
 あし。だね
 
 こんなに
 ちいさく
 まだせかいをあるいてさえないものを
 あし。と呼ぶと
 せかいを歩いている人は
 みな
 幸せな気持ちになる

あかちゃんの存在はそれだけであたたかいもの。
大きくなれば誰かにこんなふうに足のうらまでしみじみみられることもないなあと。
そんなふうに慈しまれながら、いつかひとりで歩いていくだろう、
そんな人の出発点を
一枚の写真で思い起こされた。
赤ちゃんのあしは自分を支えることは出来ないけれど、
もしかしたら周りの人を支えるものかもしれない。
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by soranosanngo | 2015-10-09 08:33 | | Comments(0)