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冬の夜のつめたさが
ひとばんかけてこしらえた
氷の粒たち
朝のベランダのてすりの上で
名もない宝石になって輝くときに
わたしは洗濯物を干す

冬の朝のあたたかさが
ゆっくりと
それらを溶かしていくのを見ている
まるで
かけがえのない幸せのただなかにいるような
肺の奥まで研ぎ澄まされてゆくような
奇跡的なこころもちで
ああ、ここは宇宙のかたすみだ
わたしは洗濯物を干す
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by soranosanngo | 2015-12-30 08:29 | | Comments(0)

「母と暮らせば」

クリスマスが終わったばかりの広島市内の賑わいは、暖冬のせいか、ダウンジャケットの人の確率が低かった。
八丁座(二時間座っても全然おしりが痛くならないという椅子というかむしろソファと呼ぶべき椅子で観ることが出来、足だって存分に伸ばせる。私は日本一の映画館だと思う。隣接するカフェもいい!夫婦どちらかが50歳以上なら二人で2200円!)で映画「母と暮らせば」を観る。夫と息子と三人で。娘は部活で来れなかった。長崎の原爆のあと、三年経ったお話で、亡くなった息子(二宮くん)が母(吉永小百合さん)のもとにあらわれるという話。

この映画は井上ひさし原作の「父と暮らせば」(広島原爆後の話)と対をなす意図で山田洋次監督が制作したそうだ。生前、長崎の原爆の話も書いてみたいとおっしゃられていた井上ひさしさんの遺志を継ぐものらしい。
私は数年前、「父と暮らせば」を観て、とても感銘を受けた。原爆後、生き残られた人々がいろいろな苦しいことを乗り越えて、それでも強く生きていこうとする姿に。

「母と暮らせば」冒頭の大学の教室で、今まさに自分の頭上で原爆が落ちた疑似体験をしたかのようなシーンはショッキングだった。何が起きたかもわからないまま、日常の営みの中の一瞬で命を奪われるという理不尽さ。亡霊になった息子も、原爆さえなければ医者になり婚約者と結婚し家庭を持ち子が生まれ母とともに生きていくという将来があったのに、本当に無念だったと思う。ラスト近くのシーンで、母親が、亡くなったのが我が子でなくて、あの子であったらよかったのに、と言うセリフがある。そんなふうに思ってはいけないとはわかっていても、それは子を誰よりも愛しているからこその親の真実の一面かもしれない。心優しく前向きな母親にだって人をねたむ気持ちがあって当然だと思う。このシーンは「父と暮らせば」のあるシーンにも重なるところ。そんなふうに思ってしまう自分のことを「悪い母さんね」とつぶやく。本当に悪いのは戦争なのに。

もちろん悲しい映画ではあるのだけど、母と息子のやりとりはどこかほのぼのとしていて笑いもある。長崎弁はちょっと広島弁にも似ていて、方言っていいなあとしみじみとした。
キスシーンを連想させる場面があったが、あえてその絵は入れなかったのは、こどもにも観てもらえるような配慮ではなかったか。グロテスクなシーンも残酷な戦闘シーンもない。(主人公の兄が母の夢枕に立ったという回想シーンだけ、この映画の雰囲気ががらっと変わってちょっと怖い)あるのは理不尽に死んだ人の深い悲しみと生き残った人の深い悲しみ。それでもラストシーンにあたたかいもの、なにもかもを浄化するような、一言でいうなら、愛のようなもの、を感じたのは「父と暮らせば」の映画と同様だった。

息子は亡霊なので映画館にも入りたい放題。観てきた映画について母と話すシーンの中で「アメリカって不思議な国だ。あんなに美しい映画を作るのに、おそろしい原爆も作るんだから」みたいなセリフがあった。平和を願い、美しいものを愛するのがほんとうの人間らしさだと思いたいが、そこに国家というものが加わると、ねじまげられてしまうのかもしれない。

映画を観て、ランチをとったあと、来られなかった娘のために福屋の地下「みっちゃん」で焼いてみらったお好み焼きを買って帰った。
お好み焼きの店の名前に女の人の名前が多いのは、戦後広島で生き残った女の人たちが、払い下げになった船の鉄板を利用して(広島の呉市は軍港だった)キャベツと小麦粉を使った食べ物を売る屋台を開いたからだとか。たくましいなあ。配給制で、食べ物がなかった時代、そうやって人は工夫して飢えをしのいでいたのだなあと想像する。
平和な世の中になりますように。新しい年がどうか平和でありますように。

2015.12.27
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by soranosanngo | 2015-12-27 10:48 | シネマレビュー | Comments(0)

熱にあふれた夏が暮れてゆくときは、ひどく長いように思えるけれど、
過ぎ去ってみればあっけないほど、遠い。

「誰といても寂しいのに/小さな匂い袋を密かに隠し持つのは何故だろう」
「半音さがらないまま共鳴して」(「約束」より)

作者のいる地点をまるで共有しているかのような錯覚を覚える。
遠いのだけど、今の私にとても近い。
いくつもの繊細なフレーズに立ち止まりながら読む。
詩をよむ、ということのたのしさがあふれてくる。
とても素敵な詩集。

夏を想うのには、そのさなかにいるよりも、そこから一番遠い地点、冬、という場所が、実は一番似つかわしい季節ではないか。
まさに今は冬。
夏暮れ、それは人生のある地点のようでもあり、夏を手放してゆく哀しみだけともいえない、美しく豊かな時間のようでもあり。
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by soranosanngo | 2015-12-23 10:36 | 読書ノート | Comments(0)

定期購読している中国新聞の読者文芸欄に、私の詩を載せていただいた。
事前に連絡があり、コメントと顔写真を送っておいたのだが、どきどき…。
あいにくの雨模様だったが、ビニールの包まれた新聞は濡れることなくきれいなまま。
配達する方のそんな気遣いに、いつにもまして感謝する、そんな朝だった。

詩壇賞に選んでいただいた詩。

「白菜白書」
丸ごとの白菜は
野菜というよりは赤子のよう
生きているずしりとした重量があり
まるで大切な預かり物のようにして
台所で抱きかかえれば
そこは冬の入り口だった

ひと皮 葉をむくごとに
そのからだは正しく小さくなる
まるで時間を巻き戻すような
まな板の上で執り行われる平凡な主婦の作業は
いっとき病気で失われた時があったからこそ
今はとても大切に思える

寄せ鍋に入れ
すき焼きに入れ
八宝菜にして
即席漬け
主人公になることはないものの
役をもらえれば
なんでだって挑戦します みたいな白菜

最後に愛らしい蕾になったものを解体すれば
わたしの小指ほどの一片の真実にたどりつく
 手持ちの時間は
 どれだけ残されているのだろう
生のまま食せば
それは苦い芯、であった

選者の野木京子さんより評をいただいたのも嬉しかった。
その中で「人は苦い芯にたどりつくために歩み続けているのか」という言葉にはっとする。
実は「苦い芯」の表現はフィクションなのである。実際の白菜の芯は無味だった。

今年、娘が学校で作ったという白菜をもうみっつももらった。どれも立派な白菜だった。
(重なると野菜室に入りきらないのが難)
いろいろ苦心しながら毎日のように食べている。
昨晩作った浅漬けに唐辛子を入れたのが意外に好評だった。私は30分くらい、ほんとにあさ~く漬けたものが昔から好きなのだ。
そのほとんどが水分なのに、あの好ましい歯触りに野菜の不思議さを想う。

いまだどんな詩を書いていけばいいのか、迷うことばかりなのだが、この詩が評価されたという事実に、これからの私の詩作について背中を押してもらったような気がする。
ありがとうございました。

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by soranosanngo | 2015-12-21 10:25 | | Comments(0)

詩「シュトーレン」

クリスマスまでの数日を楽しむために
私はうすくスライスされて
この家の人に食べられる

ドライフルーツとナッツがぎっしり入れられて
ぎゅっと詰まった生地のレシピは
保存料なんかなかった時代から受け継がれてきた
日持ちするお菓子
最後に粉砂糖をふりかけられ
雪化粧された
岩石みたいなお菓子

ひごとに減ってゆく私を見て
ああ、もうなくなっちゃう食べちゃだめと
この家の末娘がべそをかく

クリスマスまであと何日
小さな指を折っている
本当の雪が降るころに
いっとう美味しい私のはじっこは
あの娘の小さな口へ
そうして約束どおりに私はゼロになり
物語は終わってまた始まる

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by soranosanngo | 2015-12-19 09:12 | | Comments(0)

夜汽車

父が「汽車」と言うたびに
乗ったことない汽車というものに
乗ったような気になって
どうして陸を走る汽車に
さんずいがあるのか
理由は知らないけれど
わかる気がして

ふるさとへ続く
汽車が今でも
あるような気がして

空に尾をひくようなあの彗星が
父の夜汽車のような気がして
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by soranosanngo | 2015-12-17 08:53 | | Comments(0)

最近はただ一日を過ごしただけで夜には疲労は蓄積されてしまい、長い本を読むのがおっくうになった。この本は493頁なのだが、自分にとっては珍しく長い本。

死んだ人間が生き返り、復生者として社会にあらわれるという事象が多発する、そんな設定のもと
物語はすすむ。

復生者のひとり、主人公である徹生の死因は自殺ということで処理されていた。
それを知った彼は驚く。自殺なんかした記憶がないからだ。
自分は或る男によって殺されたのだと、その死の真相を探ろうとする。

主人公の男は死んでよみがえるまでの間の記憶がなく「空白」となっていて、
それがタイトルにつながっている。
しかし、普通に生きている人々に、「空白」がないかといえば、あるのだと思う。
例えば、充実している日々を生きている人の心に芽生える不幸を感じる時間に。
(幸福であることを自覚する一方でぽっかりあいた虚無感のようなもの)
人間ってほんと矛盾してるなあ…。
人の心の多様性を「分人」と表現していて、弱い分人を強い分人が消し去ろうとする結果
死ぬという意識はなくとも結果自殺が起きてしまう。
ゴッホの死因についても描かれていたのは興味深かった。
ゴッホの自画像はどれも違った印象だという。まさにそれらが分人だとしたら合点がいく。
けれど「消すのではなくて、認める」のだという。そんな言葉が意義深い。
うつ病による自殺が今の日本で10万人ともいわれているそうで、今日的な問題を提示させながら
ストーリーは面白く、章立てが細かいので私のように一気に読めなくとも飽きさせない。

ただひとつ、徹生が自分を殺した犯人であろうと思い込んでいた佐伯という負の人生観をまとったような男について謎のままだった。
彼もまた復生者であり、実は自分は徹生の死んだ父だと告げたことが本当だとは思えないし、物語の中で真実は明かされていなかったように思う。
だとしたら彼は何者だったのだろう。徹生の分人なのか。それとも幻のような存在か。
何かを語る重要な登場人物だっただけに、気にかかる。

紆余曲折あって、最後に徹生がなにもかもを受け入れたある境地にたったような
ラストシーンの描写にちょっと鳥肌がたった。
「光の驟雨が降り注ぐように、盛んに煌く千光湖の畔に、水鳥に囲まれた璃久と千佳が立っている。」(本文492頁より抜粋)
光がまぶしくて目が明けていられない。そんな経験をしたことが誰でもあるだろう。
閉じた瞼の中で、光がスパークする、そんな実感。
もしかしたら産道を通って誕生した赤子が初めて体験する実感かもしれない。
と同時に命が消えてゆく時も、もしかしたらそんな追体験をするのかもと想像した。
どちらも記憶としては残らないものだから確かめようがない。

少し前、時空モノガタリというサイトで「驟雨」という掌編小説を私が書いた時、生と死を背景にしてひかりのつぶが降ってくるようなイメージを驟雨として表現した。
プロの作家の書いた文学作品に照らし合わせるなどという大それた気持ちは毛頭もないのだが、
勝手にリンクしたような気持ちになり嬉しかった。
(かねてから読みたいと思っていた作家であったので)

2015.12.16
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by soranosanngo | 2015-12-16 16:06 | 読書ノート | Comments(0)

キミを愛、と名づけてもいい?
ジングルベルは明るすぎる
愛とはなんなのかわからないボクが
そんなこというのもおかしいけれど

雨も降ってきたことだし
小さなボクのふところが
小さなキミを温めることができるだろう
そう 雨、だよ
涙にも似ているね
キミの体温を容赦なくうばってゆく
冷たい雨だ
こんな真夜中に雨が降るからくりは
知らないけれど
ここでキミに出会えたことは
もしかしたら誰かの贈り物かもしれないね
サンタ、からだろうか
いいや違う
サンタはいい子のところへしか
贈り物は持っていかない
ボクはいい子でなんか ない

キミを愛と名づけたら
もしくは
愛に似たものでもいい
ボクらはひとりぼっちでなくなるのかな

おいで もしよかったら一緒に帰ろう
雪にならないうちに
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by soranosanngo | 2015-12-15 16:55 | | Comments(0)

小学生の男の子、女の子の物語。

冒頭にまずひきつけられる。
「フロリダまでは213。丁寧までは320…」名詞と数字の羅列がしばし続き、その数字が男の子の歩幅だとわかってくる。子供は身長が低い分、物理的にいっても地面と近い。そして退屈な通学路も、ちょっとした空想によって愉しくしてしまう遊びの天才なのだ。
「880で大作家。912でフランス人」中略「そしてミス・サンドウィッチまでは、いつだってちょうど950」
前半は男の子と、彼がミス・サンドウィッチと名づけた女の物語。彼女は整形手術に失敗したらしく、ちょっと変わったまぶたの持ち主で(それが彼にそう名づけさせた)もちろん彼は親しみを込めて心の中でそう呼んでいた。
彼女はサンドウィッチの売り子だったが、愛想のないふるまいに怒った客に「顔面改造ブス女」と呼ばれ、それが発端となりひと騒動持ち上がり、結局彼女は店を辞めることになる。
男の子はかねてから彼女のことを「かっこいい大人」だと思っていたので、最後に勇気を持って話しかける。彼女を描いた絵を渡すために。彼女は、結婚してこの街を出てゆくのだという。それが本当かどうかはわからないのだが、彼女は胸を張ってこれからも生きていくのだろうと思った。 
たとえば人と違う容貌や、普通でないところ、障害者と呼ばれるような者に対して世間が優しくなれるとしたら、その人が同情すべき弱者のようなふるまいを持つということに対してという場合が本音のところではあるかもしれない。
けれど彼女は毅然としている。客に対してもおもねない。もともとそういう性格だったのか、それとも何かを経てそこへたどりついたのかはわからないけれど、そこを私もかっこいいと思った。
第二章「苺ジャムから苺をひけば」は男の子の友達の女の子ヘガティが主人公。
ちょっと複雑な家庭で(それは男の子もそうなのだが)それを悩んでいながらも、どこかたくましい独自の視点を持っている、そんな女の子。

子供が語る物語、自分の子供時代のことも思い出されて、どこか懐かしい。
時間的にいえば、もう失われてしまったものだが、きっとこの心のどこかにまだいる、そんな愛しさも同時にわきあがる。
友達や周りの出来事によって少しずつ成長してゆく時間、今思えばそれはとてもゆっくりと自分を取り巻いていたような気がする。過ぎ去ってしまえば、あっというまだったのに。

余談だが、カタカナの名前で登場するだけで、どこか外国の児童文学を読んでいる錯覚に陥った。

読み終わって「あこがれ」というタイトルを自分なりに考えてみる。
男の子にとってそれはミス・サンドウィッチ。徒歩で950歩のところいた人。だけどもういない。
女の子にとっては亡くなってしまったお母さん。だから異母姉を訪ねていったのだが、やんわりと切られてしまう。
どうやら、あこがれ、とは、手がとどかないものらしい。
だけどそれに向かって手をのばすことにこそ、大切なレッスンが詰まっている、そんな気がする。
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by soranosanngo | 2015-12-09 10:31 | 読書ノート | Comments(0)

詩「酸っぱい蜜柑」

鳥がついばんだ蜜柑は甘いと父は言った

けれど私が好きなのは
目が覚めるような酸っぱい蜜柑
同じ樹であっても
陽がたっぷりと当たる場所と
そうでない場所があって
少ない光を懸命に取り込んだ
そんな蜜柑がなぜだか今でも好き

老いた父の蜜柑畑は山に還ってゆくのだろう
眼前に新幹線が行き交う風景
晴れた日の相模湾の青さを
みつめる少女が今もどこかにいる
そんな気がして
昨日買った蜜柑をひとつむく
皮のうすいそれはきっと
私が好きな酸っぱい蜜柑
理由なんかたぶんない
鳥が甘い蜜柑を好きということに
生きてゆくということに
理由なんかなくていいように

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by soranosanngo | 2015-12-09 08:14 | | Comments(0)