無名の画家たち(1)


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 目の前の若い男は、奇妙な色合わせの上着を着ていた。よくいえば世界にふたつとないオリジナリティを感じさせる色合い。悪くいえば世界の全ての絵の具をぶちまけたような、投げやりな色合い。

 もしこのまま食事に行くとしたら、一杯100円のシャンパンを出す飲み屋でさえ入るのを断られそうだ。私がもし店主ならそうするにちがいない。

 もともとは真っ白だった上着に、絵の具がとびちったのか。どうやら、その男は画家らしい

 絵筆を握るその指にも油絵の具が、まるで生まれたときからあるしるしのように、ついていた。天に決められた生業(なりわい)を持つ者は、ごしごし洗っても落ちない何かをもっているものだ。つめの間はもっとひどい。全ての色を混ぜたら、黒になるっていうのは本当かもしれない。
 
 私は男からそっと目線をはずした。

 私が座っている肘掛け椅子の横に、小学校の教室にある教卓のように味気の無いテーブルがひとつ。その上に、黒に近い赤ブドウがひと房、むきだしで置かれている。そして何かのお酒らしきガラスびん。

 観音開きの窓は表にむかって開けはなれている。、街並みが見下ろせた。どうやらこのアトリエはアパートの2階にあるらしい。
 
 石畳の階段でたむろしていた鳩の一匹がとびたち、何を思ったのか、目の前の窓枠に止まった。「クルックウ」まん丸の目に黒縁の眼鏡をかけていた。

 唐辛子色のゼラニウムが、向かいのアパートの窓で風に鼻歌をうたってきかせている。


 オープンテラスがある。小さな舞台が中央にしつらえてあり、フラメンコギターをかきならしながら、背の高いモデルのような男が歌っていた。よく通る声だった。

 中央には黒髪をシニヨンに結ったジプシー女が踊る。

 胸が大きく開いたドレス。ウエストのくびれを強調したようなぴったりとしたマーメイドライン。白地に黒のドット柄で、ひざのあたりからフリルが広がっていた。フリルの中に鮮やかな赤がひしめく。ステップを踏むたび、それらがひるがえる。まるで八重咲きの薔薇の花が咲いたようだ。

 カスタネットの音がその情熱をふちどる。

 ダン!ダン!女は不実な愛人を責めるかのように挑発的にステップを踏む。いや、睨みつけるようなその眼は、夢ばかり追いかけている恋人にカツでもいれているのだろうか。

 いずれにしてもきっと愛の物語を踊っているのだろうと思った。


 音と踊りは、フォルテとピアノを繰り返しながら、フィナーレへ。観客の拍手と喝采。

「オーレ! ビエン!」
 思わず私も椅子からたちあがり、拍手していた。

「座って!」男のきびしい声がひびく。私はこの若い画家のモデルをしているようだ。

 それから小一時間たっただろうか。「完成した!」と男が言った。鋼の意志を思わせる眉の下の黒いぎょろり眼が一瞬なごんだ。

「ありがとう。いい絵ができたよ」男はキャンバスを私に見せてよこした。そこにいたのは、確かに私だった。けれど、よその国のもうひとりの自分をみているような気がした。

「すばらしいわ。あなたはきっと有名な絵描きなのね」

「とんでもない。ぼくみたいな絵描きなど、アンダルシアに、ごろごろいるさ。けれど、いつか世界中の人がぼくの絵を見てくれる、そんな日を願って、毎日描いているんだ。明日描く絵が最高傑作だって、信じてね。そうだ、これで乾杯しよう。安物だけど、案外おいしいシェリー酒なんだ」
 そう言って男はテーブルのお酒のびんを指差した。


「ところで、ハポネッサ(おじょうさん)、君の名前は?」「名前……?」

 私は自分の名前が思い出せなかった。一体どこへ忘れてきたのだろう。
「ごめんなさい。名前を思い出せないの」
 そう答えると、男は、ハハハ、と声をたて、愉快そうに笑った。びろうどのようなテノールだった。
「それじゃあ、ぼくの名前を教えておくよ。ハポン(日本)に帰ったら思い出しておくれ。ぼくの名前は、パブロ・ディエーゴ・ホセ・フランシスコ・デ・パウラ・フアン・ネポムセーノ・マリア・デ・ロス・レメディオス・シブリアーノ・センティシマ・トリニダード・ルイス・イ・ピカソというんだ」

 ピカソ? あの有名なピカソ? 私はとてつもなく長い名前を、忘れないように必死になって繰り返した。
「パブロ、ディエーゴ、ホセ、フランシスコ……」いくど繰り返しただろうか。となえているうちそれはエンドレスに続く呪文ように私の頭にこびりついた。

<つづく>
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# by soranosanngo | 2011-07-30 19:18 | 無名の画家たち(ファンタジー) | Comments(0)