最終章 かけがえのないもの

 涙はなによりも即効性のある薬効成分を含んだ水なのかもしれない。その水は絶望をふやかし、新たな希望の芽を開かせる。

 ルチアは週末、ボスのバリオーニと共に、アントニーの実家に向かった。

 アントニーの父であるダリオ コンティには、ビジネスで何度か会っていたルチアだったが、こうして面と向かうと、アントニーの面影がそこかしこにあることを感じる。
 画廊の上客でしかなかった男が、悲しみを共有する、とても近しい存在に思えてくるのだった。
 「連絡が遅くなり申し訳なかったです。息子の遺体はエジプトで荼毘に付し、家族で密葬しました。家族といっても私と家内だけですが」
 アントニーの父親は、今は再婚しているらしい。アントニーにとっては継母にあたると思われる女性が隣に座っている。シンプルな黒いカシミアのセーターに黒いロングスカート、大玉の真珠といういでたちで、初老と思われたが、年相応の上品さを感じさせる美しい女性だった。

 ルチアは二人にお悔みの言葉を言ったあと、アントニーの子を宿していることを告げた。
「そうですか、あなたがアントニーの……。これはアントニーの遺品のスケッチブックなのですが、テロの爆風で荷物と一緒に吹き飛ばされて汚れてはいますが、中の絵は無事です」
コンティが差し出したそれは見覚えのあるライトブルーの表紙。
「見てもよろしいですか」
「どうぞ」
 ルチアは一枚一枚めくりながら、もうどんなに願っても触れることが叶わないアントニーの体温を感じることができたような気がしてくる。最後のページにきたところで、その手が止まった。それは自分の顔のようであったからだ。それもお腹が膨らんだ妊婦姿で。
「やはりそこに描かれているお嬢さんは、あなたですね。どこかで見たような気がしていたのです。まさか、バリオーニ画廊さんの従業員の方とは、思いもしませんでした」

スケッチブックの右下に「愛」という文字。その文字を見たとき、抑えていた感情が爆発した。愛なんてもうどうでもいい。なんで私を置いて死んじゃったの?アントニー、あなたさえいてくれたら、愛なんかなくったって良かったのに! 怒涛にように、また悲しみが押し寄せてくる。 
 ルチアの嗚咽が収まったころ、コンティが口を開いた。
「それで、ルチアさん、どうなさるおつもりですか?」
「アントニーは産んでくれとは言ってくれなかったけれど、産みたい、と思ってます」
「いいのですか? 正直驚いてます。アントニーの子供を、あなたが。それで産んでくださるという。神よ。ありがとうございます。ルチアさん、ありがとうございます」
 コンティは立ち上がってルチアを抱きしめた。
「感謝をしてもらう資格なんて私にはありません。アントニーは子供が出来たことに悩んでいました。それで旅に出たのではないかと思います。私と出会わなければ、アントニーは死なずに済んだ、かも、しれないのです」
 それを聞いたコンティは、ルチアに語りかけた。静かに、その眼差しには慈愛をたたえながら。

「それをいうのなら、私だって同じです。かつてアントニーの進路について美大に進むのは反対してましてね。それよりもいずれ私の会社を引き継ぐのにプラスになるような勉強をしてほしかったんです。今思えばただの親のエゴです。それゆえ、アントニーは美大に入学すると同時に家を出てしまった」
「いいえ、それだけが原因ではありませんわ。血の繋がっていない私のことをお母さんと呼ぶことが苦しかったのでしょう。アントニーは優しい子だったので、「お母さん」と呼んではくれましたが。アントニーが出ていったのはこの私にも責任の一端があるのです」
 今まで黙っていた継母が口を開く。

「ルチアさん、どうか自分を責めないで」
 どこでボタンをかけちがえられたんだろう。
 もう時間を遡って、ボタンをかけ直すことはできないのだ。だから人は苦しむ。もうこれ以上、この人たちを苦しめたくなくて、ルチアはうなずいた。自分を悪者にして現実から目をそむけるのは、止めよう。この現実は紛れもない現実なのだ。
 人は生きている限り、新しくボタンをかけることはできる。自分の思ったように。できるなら希望というボタンをかけていきたい。今は悲しみに打ちひしがれていても。

「事故だったんですよ。なぜあの子が死ななければならなかったのか、それは誰にもわかりません。ただ、そのスケッチブックに書かれたものを見て、アントニーは最後に幸せだったと思うことにしました。最後にあの子の心にあったのはあなたへの愛だったと。だからあなたには心からありがとうを言いたいのです」

 コンティの言葉にルチアの心は少しだけ軽くなった。
 帰り際、アントニーの継母がそっとルチアに手渡したのは、指輪だった。透明度の高い深い赤。それは代々このコンティ家に伝わるルビィの指輪ということだった。アントニーを産んだ母親が家を出るとき置いていったものらしい。
「もし良かったら、受け取っていただけませんか? そして子供が女の子だったら、いつかその子へ。男の子だったら、その子のお嫁さんへ、受け継いでもらえたら嬉しいです」

 ルチアは迷った末、結局それを受け取ることにした。代々受け継がれているものなんて自分には重すぎるような気がした。けれど子供を産むという決断だって充分重いものだ。これからはもっと重いものを受け入れていかなかればならないだろう。
 それの第一歩だと思って自分の指にはめた。ルチアの指には少しサイズが小さくてそれは薬指の第二関節で止まってしまった。
 思わず苦笑する。この指輪が似合うようになるまでは、きっとまだまだ時間がかかるのだろう。
 アントニーはそこからそう遠くない小高い丘に位置した墓地に眠っていた。真新しい墓石の横に、いちじくの木が立っていたのをルチアは見つけ、今度ここに来る時は、実がなる季節にしようと思った。その時には、アントニーに笑顔を見せられるかしら、と。

 数ヶ月のち、ルチアはふるさとの島に帰り、元気な男の子を産んだ。最初ルチアから事情を聞いた両親は慌てふためいて、娘の行く末を心配したが、今は生まれたての孫の可愛らしさに幸せを感じていた。そしてルチアは、今はまだわからないけれど、きっとアントニーに似て、美しい男に成長するだろうと確信していた。
「ハーイ、元気してまちたか? 」
「おい、マリオ、俺にも抱かせてくれよ。見てみろよ、この爪。なんて可愛いんだ」
 週末ごとに赤ん坊を訪ねては、生まれたばかりの赤ん坊を取り合っているバリオーニとマリオを見て、父母はもしかしたらどちらかが本当の父親ではないかと、多少の冗談まじりに聞いた。モト彼のレオナルドもしょっちゅう顔を出すので、その疑いをかけられているようだ。

 ルチアはそれを聞いて涙が出るほど笑った。
 「もう! 言ったでしょう。この子の父親は絵描きなの」
 その白いカンバスに新しい色を付けることはもうできないけれど、私にとって世界一素敵な絵描きよ。そして私はその運び手となる。
 バリオーニさんとマリオがこの子の父親ですって? ありえないわ。でも0パーセントってわけでもないかも? そう思ったら笑いが止まらなくなった。こんなに笑ったことなんて、久しぶりかもしれないと思う。アントニー、私なんとかやっていけそうよ。

 ルチアは朝食のパンにいちじくのジャムをたっぷりと塗る。
「どう? 甘い?」
母親が心配そうにのぞき込む。アントニーを失ってからこの方、ルチアは、原因不明の味覚異常となり、特に甘味を感じることができなくなっていた。精密検査をしても、舌や脳の機能に異常はみつからないのだ。
「ううん、だめだわ、ママ。でもね、このジャムが甘いことは、ちゃんと知っているわ、私」
 傍らのベビーベッドの中で眠りにつく、天使の寝顔をながめながら、ルチアは思った。
 人生の苦味はこれから先もきっと味わうことがあるだろう。甘いばかりが人生でない。もしかして甘さはほんの少ししか用意されてはいないのかもしれない。でもきっといつか甘さを取り戻してみせるわ、とつぶやいてみる。
 
「今年もいちじく、たくさん成るかしら?」
 窓からいちじくの木が見える。緑の葉が生い茂げる佇まいはルチアが小さい頃から見慣れてきたものだ。太陽の光りがその葉に反射し、眩しい。
 光りの果実。まるでそのひとつひとつが、かけがえのない宝石であるかのように。

Fine
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Commented by 朝倉 瑠璃 at 2012-05-04 10:17 x
珊瑚さん

HIKARU果実ールチアの物語ー 拝読しました。
豊かな物語ですね。イタリアの焦げた大地、熟れる果実の甘い匂い、冷たい顔の美少年、成熟した男の葉巻の香り、娘と大人の女のはざまにいるヒロイン。
中篇ですね、原稿用紙にして何枚くらいの作品でしょうか。長篇であらためてじっくり読ませていただきたいなと思います。生命力のある小説です。
HIKARU果実の題は、ラストの一文につながりますね。珊瑚さんの物語は最後いつも生への肯定があるように感じられます。たとえそれが死で終わったとしても、浄化され、新たに生へと転生していくような。

ありがとうございました。
Commented by soranosanngo at 2012-05-04 16:55
瑠璃さん
おしまいまで読んでいただきまして
ありがとうございます。
最近はメモ帳を使って書いていますので
原稿用紙換算は不明なのですが
たぶん100枚くくらいかなといい加減ですが思います。
もう少し膨らませて初の長編に仕上げてみたいという
気持ちはあるのですが、これがなかなか。
少しねかせて、気長に取り組んでいきます。

実はタイトルは全て書き終えてから、改題しました。
もとは「いちじくジャムの甘い香り」でした。
生に必ず付随する死、それはこれからもきっと書いていくテーマでありそうです。

こちらこそ、ありがとうございました!
Commented by tobetonbi at 2018-09-13 20:44
ボスのバリオーニがいい男ですね。
彼がルチアに食事をさせる場面で、思い出した人物がいます。

私の娘、大学で陸上をやってましたが、「こっちにもお父さんみたいな人がいる」と言ってたのが部の監督さん。
その監督さんにときおり食事につれていってもらってたようです。
「元気がないみたいだったから」とかいって、呼び出しておいしいものを食べさせる。
もっとも娘は「ネタが大きすぎて。あわびとか好きじゃないし。でも吸い物はおいしかった」とか
貧乏育ち丸出しなんで食べてるもののありがたみが分かってないようでしたが。

「どこがお父さんみたいな人だ」回らない寿司屋とか、私はそんなとこ連れていってないだろう。
そもそも、元気がないみたいだからって女の子をおいしいもの食べに呼び出すなんて粋な真似はしたことないぞ。
「ほんとうにお父さんみたいな人か?パパじゃないだろうな」とは冗談にも言ったことはないですが。
まあ、食事のときは監督さんの奥さんも一緒だったそうです。

ともあれボスのバリオーニ、金持ちで教養があって、モテる男。
それだけで私とは別世界の人間ですが、やはり中年男を応援したい。
彼がルチアと再婚しないかなと期待(笑)
Commented by soranosanngo at 2018-09-14 12:23
> tobetonbiさん
大学の運動部のハラスメントが報道されていますが
いい監督さんに巡り合えたお嬢さんはラッキーでしたね。
人生で出会いほど重要なことはない気がします。
思春期はなおさら。

ルチアにとってバリオーニという上司に出会ったことで
この先の人生が変わっていくのかいかないのか
わかりませんが、いい出会いだったことはいえるのかなと思います。
長いものを読んでいただき、ありがとうございました。
何年かぶりに私も読み直す機会となり、感謝します。
by soranosanngo | 2012-05-03 16:46 | HIKARU果実【ルチアの物語】 | Comments(4)