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7 Gone With the Wind

 ルチアは窓辺に椅子を移動させ、座って夜空を眺めていた。お天気への杞憂は、存外取り越し苦労に終わりそうだった。一刻前には黒い雲が立ち込めて、小さな星々さえ隠していたが、華々しいファンファーレこそなかったものの、今、しずしずと荘厳な無音のレクイエムを響かせながら、舞台の幕が開こうとしている。
 突然吹き始めた強風が空の暗幕を翻し、今宵の主役をお目見えさせてくれたのだ。風というのは、偶然に、いたづらに、気ままに、例えれば行方知れずの家出人のようなものだが、時として、その消息をこんな風に知らせてくれるものだ。そして、知る。家出には、家出人の理由があったことを。戻るには、理由があることを。
 この世で起こる神羅万象は、誰かからのメッセージとしたら、それを読み取るに、現代人は忙しすぎる。
 【皆既月食】はそんな現代人の曇ってしまった共鳴器のスイッチを再び押してくれるもの。
 太陽、地球、月が今一直線に並び、天空の神話が始まる。
 最後の三日月が闇に溶けていくと、代わりに赤い月が登場した。心の底が、ざわざわと騒ぎ、肌がふつふつと泡立っていくのをルチアは感じていた。
 家出人は戻らないかもしれない。
 そんな考えが頭の中に浮かび、いい知れない不安に襲われていく。
 外は風がますます強くなったようだ。建てて付けの悪い窓枠をかたかたと鳴らしていくのは、そんな風。風。風。
 隙間風が、テーブルに灯した小さな蝋燭の最後の火に、口づけした瞬間、無情に命を消した。蝋燭の芯は自分がただの黒い残骸になったことにしばし気づかず、自分の中から白い煙【魂】が流れ出すのを、不思議そうにみつめているだけだった。

 胸の中のざわざわ感は、翌日になっても消えなかった。日中なんとか仕事をしていたものの、それは不吉な呪いのようにルチアを不安がらせ続けた。
 ようやくその正体を知ったのは、夜、自宅アパートでTVを見ていたときだった。ショートカットの中年の女のキャスターが、早口でnewsを読み上げる。彼女は、今朝エジプトのルクソール駅で自爆テロがあり、犠牲者が多数出たもよう、と二度繰り返した。
 14インチのTV画面が、犠牲者の名前のテロップを映し出していく。あたかも映画のエンドロールのように。いくつかのアルファベットが意味を持たない記号のように流れていく。その中のひとつにルチアは釘付けになる。
 【アントニー コンティ 死亡】
 まさか。いいえ、きっと同姓同名の人よ。アントニーも、コンティも、ありふれた名前じゃないの! 私のアントニーじゃないわ。自爆テロ! 死亡、ですって! ふざけないでよ。そんなの絶対信じない。
 そう思おうとすればするほど、その考えが子供騙しの気休めのように思えてくる。
 これは、現実に起きたことなのだと。ましてや映画のエンドロールでもないと。
 NO、NO、NOと叫ぶ心の声が、底の見えない谷に吸い込まれていく。木霊(こだま)さえも返ってこない暗い闇。
 ルチアはトイレに駆け込み、今しがた食べた夕食のピザをそっくり吐いた。胃の内容物がなくなっても、しばらく吐き続けた。最後は緑色のどろりとした液体が出てきた。胃液だろう。三流のホラー映画みたいじゃないか。アントニーとレンタルDVDで観たあのホラー映画。もうルチアには、そのタイトルさえ思い出す気力も残されてない。
 涙と鼻水が、とめどなく流れてきた。

 どのくらいたっただろう。白い便器にもたれ、伏せた顔をのろのろと上げる。ルチアはようやくつわりの嵐(初めてのことだったので、たぶんあれがつわりというものだろうと理解した)が去ったのを知り、洗面所へ立った。
「ひどい顔だわ」
鏡に映るのは、魔女の呪いで一瞬で年老いてしまった女か。先ほどのTVで観たテロップが、呪文のように、よみがえってくる。
 ルチアは勢い良く水道の蛇口をひねり、幾度も顔を洗った。
それからベッドに横たわり、携帯電話でアントニーに連絡してみたが、つながらなかった。「今どこ?」「連絡して」「大丈夫よね」短いセンテンスばかり、メールし続けた。しらじらと朝が明けようとする頃、腕も指もくたびれ果てて、ようやくルチアは目を閉じた。そのまま身じろぎもせず、アントニーからの返信を待った。長かった夜が終わろうとしている。けれどこのまま一睡もできないだろうとルチアは思った。

 翌日、家にいるのがいたたまれなくなり、ルチアは出勤した。履きなれたローファーなのに、踏み出す一歩一歩が、砂浜を歩いているような歩きづらさだった。心もとなく、ぐらつくような。
 花屋が並べる今朝仕入れてきたばかりの色とりどりの花。
 職場へ急ぐ人や車。
 クラクション。
 街にあふれる色や音さえも、モノクロームに沈んでいくような気がした。今朝もジプシー達がいる。いつもと変わらない朝。けれどルチアにとっては昨日の朝とはまるで世界が違うように感じた。

それから数日間を抜け出せない迷路でさまよっている気分だった。その迷路に突然終わりを連れてきたのは、一本の電話。待ちくたびれたアントニーからの。震えながら電話にに出ると、耳に飛び込んできたのはアントニーの声ではなかった。 
「私はアントニーの父親でダリオ コンティと言います。アントニーは、亡くなりました」
 その電話で、ルチアは一縷の望みも失った。
 過ぎ去ってみれば笑い話にしてしまえることは、人生にはいくつもある。けれど、ルチアにとって、この事実は、ゴール見えないの迷路よりもタチの悪い、絶望という暗闇を連れてきた。
  丁度画廊の事務所にボスと同僚のマリオがいた。ルチアは胸の中にこれ以上絶望を隠しておけなくて、二人に今しがたかかってきた電話のこと、恋人の死が現実になってしまったことを話した。
「ダリオ コンティだって!」
 ボスのバリオーニが叫ぶ。
 その名前はボスの大切な顧客であったのだ。先日も、あのモロー作のオルフェウスを題材にした絵を高額で買ってくれたばかりであった。
 どこかで聞いた名前だと思ったわ。まさか、アントニーの父親だったなんて。
 そういえばアントニーの家族のことはほとんど知らなかったと、今更ながら思い知らされたルチアだった。

 マリオはルチアの両肩を無言で抱きしめた。まるで壊れたガラス人形を抱くみたいにそっと。今どんな言葉をかけたらいいのか、ルチアの哀しみを癒すことができるのか、到底思いつかない気がする。
 ただ寄り添って、同僚かつ愛すべき女友達の、不運を呪い、ともに泣くことしかできなかった。
 それはボスのバリオーニにしても同様の想いである。
 ひとしきり三人で泣いた後だった。
「それでね、彼の子供を産もうと思ってる。いいえ、産むわ」
 マリオは鼻水をかんだハンカチをあやうく落としそうになる。
「えっえっ今なんて言ったの?」
「だから、彼の子供がいるのよ、ここに」
 二人は驚きのあまり、しばらく言葉を失った。
by soranosanngo | 2012-05-03 16:49 | HIKARU果実【ルチアの物語】 | Comments(0)