6 アントニーの旅

 そのままルチアはアントニーの腕のなかで、まどろみながら朝を迎えた。

 いつもと同じように朝が始まる。
 いつもと同じように空が色を取り戻す。
 けれど昨日とは大きく違う。

 人生には大きな分岐点があるものだが、ルチアは自分が新しい道を踏み出したような気がしていた。
 アントニーといえば、その分岐点で、右にも行けず、左にも行けず、昨日と同じ風に吹かれていた。
 柔らかな朝日が、アントニーの美しい顔の輪郭をぼやかせ、産毛を金色に染めていく。
なぜかルチアはいい知れぬ不安にかられ、両手でアントにーにの頬を包んだ。アントニーの白い彫刻のようなそれに、ルチアの手のひらの温もりが伝わり、次第に赤味がさしていく。
 大丈夫、アントニーは私の隣にいる、ルチアはそう実感したくて、その頬にキスをした。


『少し時間をくれ。一人になって考える。これからのこと。君のこと。二人のこと。そして生まれてくる子供のこと』

 数日後、そうメールを残してアントニーは旅に出た。
 彼はスケッチ旅行も兼ねて、定期的にふらりと旅に出るのが常だったので、ルチアはいつものことだと考えていた。
 まさかそれが永遠の別れになるなどと、その時は露ほども思いもしなかった。

 アントニーはエジプトへ旅立った。カイロ駅から寝台列車に乗り込み、明日の朝にはギザ駅に着く予定だ。
 列車が到着するまでまだ小一時間ある。アントニーは駅のホームのベンチに座り、スケッチブックと鉛筆を取り出した。何かの符号にしか見えないアラビア文字が、神聖な面持ちで、そこかしこにあふれている。
 ビジネスマンや観光客が忙しそうに行き交う駅の様子をスケッチし始めた。ざわざわとした雑踏のBGM、物売りの声、構内に響くアナウンス。
不意にルチアの声がしたような錯覚に囚われ、顔を上げた。しかし、目の前を通り過ぎる人々は見知らぬ人ばかりだった。

 気がふれた女の叫び声のような警笛を鳴らしながら、砂埃を身に纏った車体が駅に滑り込み、澱んだ空気を攪拌していく。
 アントニーは予約したB-10というコンパートメント(個室)のドアを開けた。予期せずそこには先客がいた。はっとして、改めて自分の切符に記載された番号を確認したが、間違っていない。
「すみません、ここは僕の部屋だと思うのですが」
 先客に切符を見せる。ずいぶんとお腹がせり出したエジプト人らしき妊婦だった。頭から青いベールをかぶっていた。三歳くらいだろう、小さな男の子も一緒である。
 具合が悪いのか、備え付けの長椅子に身体を横たえている。
 妊婦は鞄から自分の切符を取り出し、確認しているようだ。そしてのろのろと立ち上がると、小さな声で「ソーリー」と言うと出て行った。

 コンパートメントは狭かったが、小さな洗面台がついている。とりあえず手を洗おうとしたが、水はチョロチョロとしか出ない。エジプトでは水は貴重なものなのだろう。
 簡単な夕食がトレイに載せられ運ばれてきたあと、車掌が壁からベッドを引き出し、ベッドメイキングをしてくれた。
 旅の疲れもあってそこへ身を横たえると、電車の振動とガタンガタンというリズミカルな音を子守唄にして、アントニーはいつのまにか眠りに落ちていた。

 再び、現実に戻されたのは深夜2時を少し回った頃だった。
 誰かがコンパートメントのドアを叩いているのだ。
 何だよ、こんな夜中に……。
 しばらく放っておいたのだが、それは止みそうにない。
 仕方なくアントニーはベッドから降り、ドアの前で「誰? 何か用か?」と言った。返ってきた声はアラビア語のようだったので、その意味は分からなかったが、幼い子供の声だった。先ほどの男の子の顔が咄嗟に浮かぶ。
 ドアを開けると、やはりあの子供の姿があった。男の子は泣いているようだ。
 アントニーはかがんで「どうした?」と声をかけた。

 男の子はアントニーの手を引っぱり、隣のコンパートメントに連れていく。
 中には先ほどの妊婦が長椅子に横向きに寝ていた。時折苦しそうにうめき声を上げる。
 額から汗が滴り落ちている。
 もしかしてこれは陣痛ってやつじゃないだろうか……。
 内心どきどきしながら、アントニーは妊婦のそばへ行き、「大丈夫ですか?」と声をかけた。妊婦は一度うなずいたものの、再び苦悶の表情を浮かべる。
 アントニーは壁に備え付けられている電話を手にし、車掌室に連絡をとった。

 車掌が来るまでの間、アントニーはどうしたものかと、おろおろしつつも、妊婦の傍らに膝を折って、顔を寄せる。
 その手を握ると、汗ばんだ手のひらがぎゅっと握り返してきた。爪が手の甲に食い込む。
 痛みに耐えているその姿を見ていると、祈るような気持ちになってくる。
 次第に妊婦がルチアの顔と重なってきた。
 
 ルチア、君はこの苦しみに立ち向かってでも、子供を産むというのか。
 そして在りし日の自分の母親にも……。
 母親が痛みを乗り越えて、自分を産んでくれたんだと思った。

 長年蓄積されてきた母親への確執が、なぜかどうでもいいことのように思えてきた。命をつなぐことの奇跡、それを目の前にして、アントニーの中で何かが変わっていった。

 車掌は一度様子を見に来て、また出ていった。列車に医者がいないか、捜してくるということだった。
 アラビア語、英語で、急病人を知らせるアナウンスが遠慮がちに深夜の車内に流れる。 しばらくして車掌と連れ立って初老の白人男性が現れた。どうやら、幸いにして医者が見つかったらしい。
 アントニーは自分のコンパートメントに戻ろうとして、連れの小さな男の子が目に入った。
 いよいよ大きくなる母親のうめき声をどんなに不安な気持ちで聞いていることだろう。それを考えると、置いてはいけない気になって、朝まで自分が面倒をみると母親と車掌に告げて、男の子を連れて自分のコンパートメントに帰った。

 眠気が限界を超えていたのか、男の子は簡易寝台に寝かされると数分もしないうちに寝息を立て始めた。頬にうっすら涙の跡がある。幼い子にとっては長すぎる夜だったのだろう。

 コンパートメントの電気を消すと、窓の外の暗闇が不意に分断される。夜明けの光が水平線を薄紫色にふちどっていく。神の手を感じるような美しい風景だった。
───明けない夜はない……。
 自分の心にあった闇にも光が射すような気がした。そうすることで、冷え冷えとしていた心の奥処が温かさを取り戻していく。
 アントニーは何かに背中を押されるように、スケッチブックを取り出すと、刻一刻と変わっていく目の前の風景を、スケッチしだした。それはアントニーの心象風景ともいえる絵であった。
───この絵を描くための旅だったのかもしれない。
 最後のページに描いたのは、一人の妊婦だった。大きな腹を慈しむように手のひらで支えている。その顔はルチアにとてもよく似ていた。

 アントニーはそのスケッチの右下にこう記した。
 『愛』と。
 愛はいずれ変容するものかもしれない。永遠でないのも知っている。けれども今は鉛筆を握る指先まで、それがあふれ出てくるのを感じていた。
 
 夜明けと共に、新しい命が産み落とされた朝、アントニーは終着駅で爆発テロに巻き込まれ、あっけなく命を落とした。
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by soranosanngo | 2012-05-03 16:52 | HIKARU果実【ルチアの物語】 | Comments(0)