5 ハーフムーン

 ルチアは約束通り、仕事が終わってアントニーを訪ねた。ドアを開けると、油絵の具の匂いが漂ってくる。
 壁という壁には作品の数々が立てかけてある。
 なじみの匂い、見慣れた風景。それが今夜はどこかよそよそしく感じるのはなぜだろう。
「夕食まだだろう。座ってて」
 アントニーがテーブルにピザとコーヒーを用意する。
 週末から会っていなかったので、それぞれあった出来事などを話しながら、遅い夕食が始まった。
「話たいことがあるって言ってたよね」
 アントニーの問いかけにうなずきながら、ルチアは思い切って妊娠のことを告げた。
アントニーの動きが止まる。二人の間の空気も固まったように感じ、息苦しくなってくる。とてつもなく長い時間が流れたような気がした。実際には四、五分といったところだろうが。
 沈黙を破ったのは、アントニーだった。
「それで、どうする」
 アントニーの言葉は氷のナイフのような冷たさで心にささってくる。まるでひとごとのようなその言葉に、ルチアに怒りを含んだ失望が押し寄せる。
「結婚して、なんて言わないわ。だけどこの子は産みたいと思ってる」
 プライドだけが、ようやくルチアを支えていた。
「正直に言うと、僕は子供は欲しくない。君の事は愛しているけれど」
 いつか雑誌に『薄い唇の男は、心も冷たい』って出てたなあと、ルチアはアントニーの薄い唇を見ながら思い出していた。
「どうして? まだ学生だから?」
「違う」
「じゃあ、どうして?」
 アントニーは嘘をつかない男だった。それがせめてもの慰めであるようにルチアには思えてきた。

「子供は、いつか邪魔になるから。邪魔になって捨てられた子供の気持ちは君には分からないだろうけど」
「あなたには分かるの?」
「ああ、僕は母親に捨てられたんだ。六才の時に」
 初めて聞くアントニーの過去だった。
「僕の母親は自分の夢を叶えるために、僕を捨てたんだよ」
「夢って?」
「女優の卵だったんだよ。でも僕が出来たせいで父親と結婚した。結局夢を諦めきれなくて、離婚してアメリカへ行ったよ。そしてハリウッドで成功した」
 アントニーが口にした女優の名前はルチアもよく知っていた。若いときはその美貌で、中年の今となっては、演技力を高く評価されている女優。
 そう言われてみれば、目元がアントニーに似ている。

 初めて知るアントニーの過去だった。両親そろった幸せな家庭で育ったルチアには、その辛さはわからないものかもしれない。経験したものにしかわからないとアントニーが考えるのは、たぶん本当だろう。
 けれどルチアは愛する人のその辛さに寄り添いたかった。わからなくとも、近くで感じてあげたかった。たとえそれが何の役にも立たなくとも。
 ルチアはアントニーの背後に回ってそっと背中を抱いた。少しウェーブのかかった黒髪からアントニーの匂いがする。油絵の具と体臭が混ざったような匂い。今日は今だ癒されていないアントニーの悲しみがそこから立ち上ってくるような気がしていた。
 ルチアは、なぜか今自分が抱いているアントニーが、幼い子供のように思えてくるのだった。そしてスクリーンの中でしか会ったことがない恋人の母親に、自分がなったような錯覚にとらわれた。
「私はアントニーのそばにずっといる。決してあなたを見捨てたりしないわ」
 アントニーが今自分のお腹の子を捨てようとしているのに、彼のことを責める気持ちにはなれないことが、自分のことながら不思議だった。

 
 唯一の愛がもしこの世に存在するのなら、ルチアはそれを手に入れたいと思った。
美しい花など咲かなくてもいい。世間の人に「幸せね」と祝福されなくともいい。自分の中だけでたったひとつ実をつけた、これこそを唯一の愛と呼びたかった。
 
 ルチアはふるさとのいちじくの実を思った。
 
 美しい花を咲かせずとも、実をつけるあの芳香な果物。

 幼い頃から慣れ親しんだあの実を、今、がむしゃらに食べてみたい。手も口もべたべたにして。
 そして残りはジャムにして、長い人生かけてあの甘い香りを楽しむのだ。


 何かを決断する時、人は二種類に分かれるものかもしれない。
 
 水中で重い石となる人と、軽い羽根となる人と。
 重い石となって水底に沈んだら、考える時間はたくさんあるけれど、下手をしたらずっとその水底から浮かび上がれない。アントニーのように。
 
 しかしルチアは軽やかな羽根だった。
 それは持って生まれた彼女のパーソナリティだったのだろう。そしてそれを育んだのは、あのエメラルドブルーに輝く海に囲まれたふるさとの島であったのかもしれない。

 その決断が軽はずみだと責めることは簡単だ。けれどそんなことはとるに足らないことだとルチアは思った。とるに足らないことがたとえ百あったって、大切なたったひとつに勝ることはない。

「アントニー、オルフェウスの神話って知ってる?」
「オルフェウス……ギリシャ神話に出てくる若者だったっけ。竪琴の名手の」
「そう。死んでしまった彼の恋人を黄泉の国から連れ帰ってくる途中、あともう少しで現世というところで、振り返ってしまうのよ。振り返ってはいけないという掟を破って。」
「恋人がちゃんとついてきているか心配だったんだね」
「たぶん。今日ね、そのオルフェウスの絵を仕事で見たのだけど、彼はあなたに似ている気がする」

夜も更けて、窓は闇を映していた。ジャニコロの丘も眠りに落ちて、少ないながらも星が瞬いている。ハーフムーンが白く浮かんでいる。

「アントニー、あなたは振り向く必要がないわ。だって私はいつもそばにいる。ずっと、ずっと。いいでしょう」
「子供はどうするんだ」
「私が育てるわ。あなたがパードレ(パパ)と呼ばれる自信がつくまで一人でだって大丈夫よ」
 今はまだハーフムーンが私にはちょうどいい。幸せが満月であるとしたら、半分くらいが居心地がいい。多少の強がりは、もちろんあるけれど。
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by soranosanngo | 2012-05-03 16:54 | HIKARU果実【ルチアの物語】 | Comments(0)