4 オルフェウスの神話

「ボンジョルノ」
 ボスが出勤してきた。
「ボンジョルノ」
 二人も笑顔を返す。

「今日の午後、倉庫へ絵の持ち込みがあるんだ。ルチア、手伝って」

ボスのミスターバリオー二はローマ郊外に商品のための倉庫を持っている。倉庫といっても、古い別荘(ヴィラ)を改築したもので、実際宿泊もでき、そこで商談もする。ローマから、南東へ三十五km、プレスティーネ山脈の裾野にある小さな街にあった。

「オーケー。で、モノは?」

画廊には、いろんなルートをたどって、買ってほしいという持ち込みの絵が持ち込まれることがあるのだ。

「十九世紀の象徴主義の画家。ギスターユ・モローの油絵だという触れ込みだよ」

「モローですか。確か彼の描いた『オルフェウス』がパリのオルセー美術館にありますよね」

「ああ。モローはオルフェウスの神話に基づいて、いくつか作品を残しているんだが、驚くなよ、未発表の作品だということなんだ」

「それがフェイクでなかったら、すごいことになりますね」

「最初は、おおかた贋作だと思ったんだが」
 持ち込み作品は玉石混合である。有名な作家、つまり売れ筋の作家には贋作者がついていることが多い。
 有名な日本の贋作者タキカワは『黒田、安井、梅原にしても本場のコピーじゃないか。本場の本格派の精神まで写す俺のコピーの方が、はるかに価値がある』と少々乱暴な言葉を残している。
 贋作と知って買うコレクターも多く、それが市場として成り立っているところが不思議なところである。

ボスはマリオが煎れた、いや正確にはエスプレッソマシーンが煎れて、マリオがカップに注いだコーヒーを一気に飲んで、一息いれた。

「話を聞いたら、ひょっとしたら、ひょっとしてと思ったりしてね」

「話というのは?」

「その絵の所有者はリルケの遺族なんだ」

「リルケ……あの詩人のリルケ、ですか?」


「ああ、あの大詩人のリルケ、大詩人のリルケさ」
 ボスは顎を、親指と人差し指でV字を作るようにして撫でた。ミスターバリオーニのくせである。同様に同じことを二回繰り返して言う事も。
 それは、ボスが心底楽しがっている時に出るくせだということを、ルチアは今までの経験から知っていた。そしてそれを見るたび、ボスの事が前より身近に思えてくる。
 当のバリオーニ自身は全く気づいていないから、おかしい。
 今日はこれがダブルで来たとあっては、相当だと、ルチアは思った。
「でもどうしてリルケの遺族がその絵を持っていたんでしょうか」
「なんでも、リルケが当時リュクサンブール美術館にあった『オルフェウス』を観て、インスピレーションを受け、モローに詩を書いて送ったそうなんだ。その詩にいたく感動したモローは、お返しとして、リルケに絵を書いて贈った」
「それがその絵なんですね」
「リルケとモローは分野は違っても、お互いの才能を認め合っていたということだろう」
 「なんかロマンチック! 芸術のミューズは粋なことしますね。男と女だったら、恋が生まれていたに違いないわ」

 マルコが不満の声を上げる。
「あら、男と男だって、恋が始まることだってあるわ」
「確かに、それはわからんね。リルケは幼少時、女の子として育てられたそうだよ」
「へーさすが、ボスなんでも知ってるんですね」
「おだてても何にも出ないよ。おしゃべりついでに言えば、絵画にしても詩作にしても、芸術は精神世界を現すための手段に過ぎないと私は思ってるんだ」
「なんとなく、分かります。きっと音楽なんかもそうですよね。だから私たちはそれを見たり読んだり聴いたりした時、感動するということでしょう」
「それには、受け取る側のアンテナの精度を上げておかなきゃならない。いくら素晴らしい電波が発信されていても気づかなければ、ないも同じ。それが画商の大切な仕事のひとつであると僕は思ってる」

―気づくまでの時間は気づくための大切な時間ー

 パソコンの画面を見ていたマルコが口を開く。
「モローは1826に生まれ、1898年に没してます。リルケは1875年に生まれ、1926年に没しています。年表の上では矛盾しませんね。リュクサンブール美術館で二人が出会うことは可能だったということになります」


「グレイト! そうこなくっちゃ」
 ボスは小さく右手でガッツポーズをした。なんか子供みたい、と二十才以上も年上の男に思ったことがおかしくて、ルチアはこっそり笑いを噛み殺した。

「リルケの著作に、オルフェウスに関連した著作がありますね」
「おお、どんなんだ? マルコ、読んでくれよ」

パソコンの中に現れた美しき亡霊、もとい詩人の精神世界をマルコは芝居がかった口調で読み始める。


 
 私たちは 幾千年も続いてきたひとつの種族――母であり父たちであり
 未来の子によってますます充たされてゆき、
 のちの日にひとりの子が私たちを凌駕し、震撼させるだろう。

 私たち 限りなく敢行された者である私たちは、
 何という時間の持ち主なのだろう!
 そしてただ寡黙な死 彼だけが知っているのだ、私たちが何であるかを、
 そして彼が私たちに時を貸し与えるとき、何をいつも彼が得るかを。

      (田口義弘訳・「オルフォウスへのソネット」より)


 マルコの三流役者もどきの朗読を聞きながら(これが舞台のオーディションならたぶん落ちるであろう)詩人の言葉というのは、水彩画の絵の具のようだとルチアは思う。
 心のプールに優しく混ざり合う絵の具。芸術家の命は終わっても、作品は生きながらえて、多くの人とこうして出会う。
 もちろん、人によって取り出す絵の具の色は様々だろう。
 さしずめ、この詩はルチアのふるさとの島にある海の洞窟の色、宝石のようなコバルトブルーを思わせた。

「ブラボー」
 朗読を終えたマルコに、二人の観客からの賞賛と拍手。

 マルコは自分で読みながら、内心この詩のことはよく分からないと思った。
まあ、自分にとって、詩が必要になるのは、恋愛中だけだからなあと心の中で言い訳した。
<改ページ>

「この詩作は、タイトル通り、オルフェウスの神話がもとになっているみたいです」

「竪琴の名手であった美しい顔を持つオルフェウス。死んでしまった恋人を冥界から連れ出そうとするが、あと少しで現世というところで掟を破って、後ろを振り向いてしまう。あんまり静かなので、後ろから恋人がちゃんとついてきているのか、不安になったんだな。掟を破ってしまったんで、恋人は再び冥界へ去ってしまった」

「後ろを振り向いてしまったってなんだかわかるわ。恋愛中に不安になって、相手の気持ちを確かめたくなる気持ちみたい」

 ルチアの言葉にボスは
「ああ、僕もそれはよく思うよ。神も人間と同じ感情をもつものなんだよ」
 と言った。


「でもそれが恋愛の醍醐味じゃないでしょうか」
 いつになっても成就しない恋愛を繰り返してきたマルコの言葉に
「言うね。マルコ」
 ボスが茶化す。

「ええっと、最後は、壮絶ですね。体は八つ裂きにされるが、頭は歌 いながら海を漂い、レスボス島に流れ着いたという。こうしてオルフェウスは宇宙の万物の中にとどまりそこから今もなお歌っているのだ、とあります」


「うわっ頭部だけになっても、歌ってるの? 想像すると……ちょっとエグいわ」
「モローの描いた『オルフェウス』が見れるよ」
 マリオがマウスをクリックする。
画面に若い女が竪琴とオルフェウスの首をかかえている絵が浮かび上がる。
「この絵の正式なタイトルは『オルフェウスの首を運ぶトラキアの娘』。この女は冥界に去った妻ではないらしい」
「じゃあ、誰なのかしら」
女の表情を見ると、死んだ男の頭部を抱えているにもかかわらず、ずいぶんと穏やかだ。死体に向かって子守歌でも唄い出しそうな慈愛が感じられる。ルチアにある考えが浮かんだ。
「この女は、仮の姿よ!」
「誰の?」
「モロー。作者自身を投影させているんだわ」
「ふうん、モローは男だったけど、女でもあったってこと?」
 マルコは絵の中の娘になんだか親近感を覚えた。

「モローは生涯独身だったらしいしね」
「同性愛者であったかどうか、それはたいしたことじゃないと思うの。あくまで私の直感だけど。モローは肉体は滅んでも生み出した芸術は滅びないと信じていたんじゃないかしら? この絵の中でいとおしむように、オルフェウスの頭部を抱いているのはモロー自身よ。頭部はつまり芸術そのもの。モローは芸術の運び手ってことかな」
「同性愛者かどうかはたいしたことじゃないだって?」
マルコは不服そうな顔をした。
「僕にとっては大問題だよ」

「なんだか話が脱線してくわ」
 ずっと二人のやり取りを、にこやかに聞いていたボスが口を開いた。
「話のレールはまた敷き直すとして、なかなか興味深い見解だね、ルチア」
ボスが顎をなでるのを見て、自分が荒唐無稽な意見を言って、いつものようにまたボスを面白がらせたことを知った。
「すみません。直感で言い過ぎましたね」
「それが君のいい所さ。さあ、今日はその素晴らしい直感を思う存分働かせてくれ」
ルチアはこれから商談が行われるはずのローマ郊外の別荘兼倉庫へ行く前に、アントニーに電話した。
「もしもし、私」
「ああ、今電話しようと思ってたんだ。サンドウィッチ美味しかったよ」
「今日ね、会って話したいことがあったんだけど、仕事が入ったんで、遅くなるかもしれない。9時頃になるかもしれないけど今夜、行ってもいい?」
「オーケー。ピザでも買っておくよ」
―ピザでもつまんで話すようなことでもないんだけど、まあ、いいか。―


 それからルチアはボスの運転するシルバーのアルファロメオの助手席に乗り、ローマ郊外の倉庫兼別荘を目指した。

 糸杉の立ち並ぶ丘陵。
 緑の田園地帯。
 ぬけるような青い空で子羊のような雲が遊んでいる。
 額縁は限りなく透明。
 
 ルチアはここの風景、ここのいかにも新鮮そうな空気が、ふるさとの島の次に好きだと思う。
 ローマの方角には、大気汚染からくる、かすみのようなもやがかかっている。あそこでこんな風に深呼吸しようとは思わないわ、ルチアは肺に思い切り空気を送り込んだ。

 小さなチャペルが鐘を鳴らす。幸せなカップルがたった今、この地で誕生したようだ。


 途中昼食を摂るために、カジュアルなトラットリアに寄る。ここのオーナーシェフは日本人で、二人はその繊細な料理を堪能した。
 鹿肉のローストの皿には赤ワインソースが絵を描くように縁どられていた。ぴりりとした香辛料が舌を目覚めさせ、ほどよく食欲を刺激してくれる。日本のワサビという植物らしい。
 デザートのティラミスはこれまた日本の食材のトーフを使ったもので、さっぱりとした食後感はくせになる味で、ルチアはおかわりまでしてしまったほどだ。
 ひとつひとつの皿を美味しそうに平らげていく、若い女の食べっぷりはなんてチャーミングなんだとバリオーニは思う。
 最近老眼気味なのか、パソコンの字はぼやけるし、今日みたいにドライブしたあとは、眼がとても疲れる。老化を実感するからこそ、ルチアの若さがよけいに眩しく思えた。
 今日の商談もきっといい成果になるに違いない、根拠のない予感を感じていた。

 窓からたわわに実った大きなレモンの木が見えた。
「そういえば、モローのオルフェウスの絵の左下にもレモンの木が描かれてましたよね」
「ああ。レモンイエローの実があったね。きっと何かの象徴として描いたんだろう」
「レモンといえば、瑞々しさの象徴という気がするけれど」
 ルチアのふるさとの島にもレモンの木はたくさん植わっていた。
「オルフェウスの首も死んだとは思われないほどの瑞々しさだったよ」
 ルチアはまだ青いあのレモンを、かじってみたい衝動にかられた。
「再生への祈り……といったところでしょうか」
 がぶりと噛んだら、きっと目が覚めるほどの酸っぱさだろう、そう思うと唾液がたまってくるのがわかる。
「絵の右下に描かれていた亀も、同じ意味を持つものかもしれないね」
 ルチアは先ほどパソコンの画面で観たモローの絵を思い出しながら、食後のコーヒーを飲み干した。
「レオナルドダヴィンチの『最後の晩餐』でも皿にレモンが載ってましたよね」
「最後の晩餐か。これで美味しいワインでも飲めたら、最後の昼メシにしてもいいくらいだよ」
「最後の昼メシのお相手が私なんかでいいんですか?」
「もちろん。これうえない幸せだよ」
 今日は運転しなければならないので、バリオーニはワインは飲まず、炭酸入りの水ペリエで我慢していた。

「ごちそうさまでした。こんなにリッチな昼食は久しぶりだったわ」
「たまには、いいだろう。美味しいものは元気をくれる。最近、ちょっと元気がなかったみたいだから、さ」
 今日マルコでなく、自分がアシスタントに選ばれたわけをルチアは理解した。そして、さりげないボスの思いやりに心から感謝した。

 別荘兼倉庫に着いたのはPM1:30を過ぎていた。

 門には指紋コードで開く仕組みの鍵が取り付けられ、警備会社のシステムも導入されている。
 高価な美術品を安全に保管するため、相当な維持費がかかるのは仕方ないことだ。

 玄関ホールを抜け、右手に商談用の部屋がある。ここはショールームも兼ねているので、そこかしこの壁に絵が飾られていた。
 ソファやテーブルなどの家具は現代的なシンプルなフォルムで、この家の持つアンティークで重厚なイメージと不思議に調和されていた。

 バリオーニはチェンバロの椅子に座って、鍵盤に指をあずける。この楽器は16世紀頃作られたもので、楽器のフロントとサイドには天使が描かれていた。
 チェンバロはピアノの祖先といわれている古い鍵盤楽器である。
「なんだか眠りを誘うメロディですね」
「それを聞いたらバッハが喜ぶだろう。これはゴルトベルク変奏曲と言って、不眠症になってしまった貴族のために、バッハが作曲したバロック音楽なんだ」
「じゃあ、お腹一杯の今聴くのは、危険ですね」
 その時、来訪者を告げるブザーが鳴った。

 ルチアが玄関ホールのドアを開けると、そこには帽子を胸のあたりに掲げた初老の紳士が立っていた。
 今日の商談の相手、リルケ家の代理人だと告げ、名前をヴェロネーゼと名乗った。
「よくおいでくださいました。どうぞ、お入り下さい。私はバリオーニ画廊のアシスタント、ルチア ファーゴと申します。社長のバリオーニのところに案内いたします」
「ありがとう。帽子をここにかけてもよろしいかな」
 ヴェロネーゼはバリオーニより大分年かさに見えたが、豊かな銀髪をたたえていた。
「お嬢さん、いえ、ファーゴさん、この美しい音は?」
「はい、チェンバロです。ボスが歓迎の気持ちを込めて今演奏いたしております」
「ほう、それは粋なことをなさいますな」
「不眠症になった方のためにバッハが作った曲でして」
「私がもし寝てしまったら、起こしてくださいますかな」
「不眠症でしたか?」
「ええ、筋金入りのね」

 ヴェロネーゼとにこやかに談笑しながら、ルチアはボスのいる部屋の扉をノックした。


 一通り自己紹介が済んだあと、チェンバロ談義に花が咲く。
「古い楽器というのは、味わい深いものがありますね」
「そうなんですよ。音は決してクリアではありません。下手をすると雑音と取りかねない音。それは若い楽器には決して出せない複雑で深みのある音。人間と同じだと思いませんか?」
「いやあ、全く同感です。ルックスも素晴らしい」
チェンバロのサイドに書かれた天使をヴェロネーゼがのぞき込む。

「絵画としても鑑賞に耐えうるものです。いかがですか? ご邸宅に一台」
「これは商品でしたか? ミスターバリオーニはなかなかの商売人ですな。なかなかのプレゼンテーションでした。考えておきます」
「是非。お安くしておきますよ」

安いと言っても、それ相応の値段が張る。ルチアが勤め出してから売れずに残っているチェンバロ。今日もこうして商談の手助けをしているかと思うと、なんだか健気だと思えてくる。
それから、おもむろにヴェロネーゼは持参した絵画の梱包を丁寧に紐解く。今日のメインイベントのモロー作という触れ込みの絵画であろう。
「これなのですが」
 中から八号サイズの比較的小さめの油絵が現れた。

バリオーニが白い手袋をつけ、その四角い客人を自分の手の中に出迎える。

その客人は無言で語りかけてくる。
決して饒舌ではない。
けれど無口でもなさそうだ。

湖底に眠るオルフェウスの首。
無数の藻のベッドに置かれている。
目は閉じられ、口は唄うかのようにかすかに開いている。
水がゆらめいて処々で光りさざめく。
闇と光。
死と生。

これは本物だ。それは直感であったが、ゆるぎのないものに思えた。

いいしれない感動がバリオーニの全身を包んでいた。

今、自分は受け取り手となり、そして運び手となる。
奇跡のような幸運に感謝し、胸の前で十字を描いた。

 右下にモローのサインがあるのを確かめると、バリオーニは絵の裏側を見た。額縁の裏板には、処々かすれて読みにくくはなっていたが、かろうじて読むことができた。

『我が親愛なる友リルケへ、「寡黙な死」をここに捧ぐ  モロー』

 とあった。

「寡黙な死―すなわち、オルフェウスのことですね」
「ああ、リルケのオルフェウスの詩にもそのフレーズが出てきたね」


ーそしてただ寡黙な死 彼だけが知っているのだ、私たちが何であるかを、
 そして彼が私たちに時を貸し与えるとき、何をいつも彼が得るかを。ー

 ルチアはバリオーニから絵を受け取ると、注意深く壁のフックにそれを掛け、遠目から再度眺めてみる。

「ボス、闇だと思っていた所に、かすかに模様が認められますが」
「近くで見ただけじゃわからなかったが、うん、あれは、亀のようだ」
 窓から降り注ぐ午後の日差しが、亀の絵をあぶり絵のように浮かび上がらせていた。

「近くだと気づかないこともあるんですね」
「真実というものは、往々にしてそういうものさ。真実を見極めるためには、少し離れたほうがいいこともあるね」
ルチアは、きっとそれは絵のことだけを指しているのではないと思った。
もしかして私は、アントニーに近づき過ぎているのかもしれない。もっと近づきたくて、妊娠したのかも。そこに真実の愛があると、都合良く考えていたのではないか。そんな考えがふと頭をよぎった。

「僕はこの絵は本物だと思う。ルチア、君の意見は?」
「私も同感です。絵のモチーフ、筆のタッチ、完成度、どれをとってもモロー作といって違和感がありません」
ボスはヴェロネーゼの方を向き直り、是非この絵を買い取らせてほしいと申し出た。
あとは値段交渉だけだと思ったら、ヴェロネーゼは意外な条件を提示してきた。

「リルケ家の条件は、この絵のことは公にしないでほしいということです。実はリルケ家の今の当主の事業があまりうまくいっておらず、つまり金のために絵を手放すということは、世間に知られたくないのです。このことが公になりますと、マスコミ連中も放っておかないでしょう」
「それでは、オークションなどには、かけられませんね」
「そうなのです。ミスターバリオーニ、そのあたりのことをなんとかご考慮いただきたいと思います」
美術品の蒐集家にはいろいろなタイプがいる。時季を見てそれを転売し、投機の対象として考える人もいる。バリオーニの客の中にはそういった考えの客のほうが多いといえよう。純粋にその作品に惚れ込み、それを手元におきたいという金持ちは少数派だ。
この絵の価値をわかってもらえ、かつその嗜好を満足させることができそうな客といったら……バリオーニは頭の中で顧客名簿をめくりながら、最終的に一人の名前にたどりついていた。ローマに本社があり、ヨーロッパ全土で事業展開している、ある大物企業のトップ、コンティ氏だった。

「わかりました。私の顧客にその条件でこの絵を買ってもらえるかどうか、是非交渉させて下さい」
「よろしくお願いします」

ヴェロネーゼはルチアと細かい書類のやりとりを済ませると、帰っていった。

バリオーニは久しぶりに大きな仕事をひとつやり終え、満足感にしばし浸った。
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by soranosanngo | 2012-05-03 16:58 | HIKARU果実【ルチアの物語】 | Comments(0)