3 画廊のお仕事

 ルチアはいつも通りチャコールグレイのジャケットとセットアップのスカートで出勤した。インナーには襟ぐりの開いた白いカットソーを着て、首から胸にかけてのデコルテを美しく見せる小技も忘れない。

 『画廊コジモ・バリオーニ』に勤め出してから、洋服はほとんど黒やグレイのスーツで、デザインも極力シンプルなのものを心がけている。
 画廊で売っている品物を引き立てるために、従業員は地味なものを身につけるというのは常識である。
 その代わり、品質と仕立てにはこだわった。同じようなデザインであっても、ウエストの絞り具合やスカートの丈など、ちょっとした違いで、野暮ったくみえてしまう。流行はめまぐるしく変わる。

 靴も上質な皮のものを選ぶようにしていた。
 ルチアはイタリア人にしては足のサイズが小さいので、ナヴォナ広場に面した靴のマエストロが営む小さな工房でオーダーメイドする。靴は毎シーズン買い換えるお金がなかったので、定番のデザインにし、長く愛用する。
 客の金持ち達は、さりげなく靴を見る。くたびれた靴を履く画廊の従業員から、高額商品を買おうと思う人はいないだろう。
 なのでルチアはいつも靴が光るまで磨きあげた。
 これも業務の一環と思えば苦もないことだった。

 しかし、まだまだおしゃれも楽しい年頃。時には自分へのご褒美として、華やかなワンピースやマニノブラニクの華奢なサンダルを、たまに買って楽しんでいる。もちろん、アントニーとのデート用。
 でも一番着たいと思っているのは、白いウエディングドレスであるのだが、
それは自分が着たいだけではもちろん叶わない服だった。


 化粧は、薄くファンデーションを載せ、あとはベージュの口紅をひくくらいで済ます。
 薄化粧と見えるところがミソで、実はコンシーラーで出来始めたシミを隠すことが最近覚えたテクニックだ。
 20代前半までは、しみやシワなど『遠いいつかの事』だと思っていたが、30代に入ってから、鏡を見る度、それはそう遠くないのでは、と思うようになった。
 まだまだと、たかをくくっていたら、いつのもにか、背後から忍び寄っていたようである。
 ルチアの白い肌は、ほんの出来始めのしみも容赦なく浮き上がらせたし、目尻に笑った時にかすかなシワが出来るようになったのも自覚していた。
 イタリアのマダムの間では、しわやシミを年輪を重ねた女のステイタスだと、むしろ誇らしげに考える人が多かったが、ルチアはほんとにそうなのかしら、と思う。

 やはりできるだけ、若くありたいと思う。
 それはアントニーの愛を手に入れるためにも必要なものだと思えるのだ。

 人は何かを失う、その時になって初めて、失いゆくものの大切に気づき、なんとかして手放さなくて済む方法はないだろうかと、あれこれ悪あがきを画作するものでsる。
 おおかたを失ってしまえば、あきらめもつき、しみもシワも立派なアクセサリーになる。
 しかし、無造作に年を重ねるだけでは、輝くアクセサリーには成り得ない。シワにはコラーゲン入のクリームが必要だし、2週間に一度はヘアーサロンに予約を取る。
 それなりに努力とお金がかかるものなのだ。 
 マダムへの道は、そんな錬金術なみの魔法で、アクセサリーへと変わるのである。

 バス停で待つ間、ルチアはケータイを取り出しチェックしたが、いつも通り、母からのメールが一通きていただけだった。
 タバッキ(切符売り場)にいた、ジプシーの親子が近づいてきた。物乞をしするためなのは分かっていたが、ルチアがケータイから眼をそらすことはなかった。

 イタリアはよそからの移民を受け入れている国家だ。ルーマニアから移住してきたロマ人はジプシーと呼ばれ、専用移住地キャンプで生活するようになってはいるが、こうしてローマの街中に流れてくることは珍しくない。
 
 貧困、政治不安、民族紛争など様々な事情で他地域からも移民は多く、不法滞在者は増えるばかりだ。すり、かっぱらい、置き引きをはじめとした都市の治安悪化に少なからず影響しているといわれている。

 ローマと他民族の融合の歴史は長く、カエサルが活躍した紀元前、ローマ帝国の頃まで遡る。
 その頃、地中海沿岸を次々と支配しながら、属国となった民族をも同化させていったのだ。
 
 都会で生きていると、否が応でもこうした社会の底辺で生きる人を目にしないわけにはいかない。
 ルチアはショルダーバックを肩から斜めがけし、ファスナーがきちんとしまっているかを確認した。ローマで安全に生きていくための処世術である。

 母親は小さな女の子の手を引き、次々とバスを待っている人に近づいては、手を出している。
 
 あんな風にして、一日一体いくら稼げるというのか。
 
 恵んでもらったコインがシワ、しみのために使われることは、おそらくないだろうし、長くたらした黒い三つ編みがヘアーサロンでほどかれることもないだろう。
 もちろんルチアが勤める画廊に、客として訪れることも。
 ちょっと見には、あの母親はルチアより大分年上のように見えたが、実年齢はもしかしてルチアとどっこいどっこいかもしれない。
  
 あの女の子はちゃんとご飯を食べているのだろうか。
 誰からも笑いかけてもらうこともないまま、今日そして明日も、無関心な眼差しにさらされ、ぼろを纏ってさまよい続けるのだろうか。

 エゴイストだと思われてもいい。ルチアは自分の愛する人たちには、そんな生活を決して送らせたくないと思った。まだ、数ミリであろう命が宿るお腹に無意識に手をやった。

 銀のスプーンをくわえて生まれた人と、そうでない人を振り分けたカードとは。身の蓋もない言い方をすれば、そう生まれついた、としかいいようがない。そこに、からくりも、いかさまもない。そういう意味では運命は人々に等しく冷酷で平等である。
 『同じ空を見ているだけで皆家族である』みたいな、のどかな小さな島から出なかったら、ルチアはきっとこんな世の不条理を知るよしもなかったかもしれない。

―気づくまでの時間は、気づくために必要な時間ー
 
 余計なことを考えてしまったようだ。
 今朝はバスが来るのがいつもより遅い気がするのはなぜだろうか、と思う。

 それからさらに十分ほどしてから、オレンジ色のバスが、やってきた。イタリアのバスが時間通りに来たためしがない。
 何に対しても、おおらかな国民性の表れだろう。

 おおらかといえば聞こえはいいが、いい加減とも置き換えられる。それに慣れてしまえば、たかが五分、十分の遅れなど、長い人生において、ウインクする時間に等しいくらいにイタリア人は思っている。
 ウインクするのに、イライラしながらする人などいないのだ。いい加減に人生を楽しむ達人ともいえよう。

 画廊にはもう一人の従業員マリオが既に出勤していて、ギャラリーの奥のオフィスで、コーヒーのマグを片手にパソコンの画面を見ていた。


 マリオは紺地に細いピインストライプの入ったスタイリッシュなスーツに、今日は黒縁の眼鏡だった。極度の近眼でもある彼は、眼鏡のコレクションが趣味で、洋服によってそれを使い分けるのがこだわりなのである。
 
 ルチアに気づくと、まるで女子高生のように、顔のすぐ横で小刻みに手を振り「チャオー」と笑った。三十五才のおっさんなのに。
 でも、これはプライベート用。仕事用と使い分けることができる、器用な奴。いや、もしかしたら、眼鏡同様それが一種の彼のこだわりなのかもしれない。

「ちょっとぉ、ルチア。目の下にクマ出来てるんじゃない?」
「えっほんと?」
「それになんか、どんよりしてるし。もしかして、アレの日? それとも昨?はアントニーに寝かせてもらえなかったとか?」

 ふふふ、と意味深に笑った。

 ゲイであるマリオは、自分も中身は女だと思っているのでルチアに遠慮ないし、時々ものすごく勘が鋭いことがある。

「残念でした。両方、違うわよ」
 ルチアは鼻の上にシワをよせ、睨むふりをする。

「疲れたのかな。週末は実家に帰ってたの」
「あら、またぁ? 先月帰ったばかりじゃない」
「実はね、実家でずっと飼ってた猫が死んじゃって」
「んまあ。いくつだったの?」
「二十歳だったわ」
「ふうん、きっと可愛がられてたから、長生きしたのねぇ」

 マリオは涙ぐみそうになり、ハンカチを出してチンと鼻をかむ。

「なあに、バンビーノの事思い出しちゃったの? 相変わらず涙腺弱すぎ」
 マリオは自分で飼っている猫にバンビーノ(赤ちゃん)という名前を付けて、溺愛しているのだ。
「ごめんね、いつかはそんな日が来ると想像しただけで、だめだわ、アタシ」
 締めていた細身のネクタイの端で涙を拭いた。

「じゃあさ、好きになった人がまた猫アレルギーだったら、どうするの」
「わかりきったこと、聞かないでくれる? 私にとってはバンビーノが一番。彼氏が二番なんだから」

 マリオはそう言って肩を大仰にすぼめた。

「大体さ、アタシの事、愛してるなら、猫アレルギーなんて克服しろ、っつうの」
 マリオはこの間、それが原因で別れた男を思い出し、べーと舌を出してみせた。

 マリオは職場の三年ほど先輩であるが、最初は面食らったものの、今では女友達と錯覚するほど気の置けない仲で、いつもガールズトークに花が咲く。
 いや、女友達以上かもしれない。女友達に恋愛の悩みを相談するのは、ちっぽけなプライドが邪魔をする時があるが、彼に対しては、それがない。
 みっともないところを見せても、なんとも思わないから、不思議だ。
 
 しかし、今回の妊娠については、まずアントニーに言わなくてはと思い、珍しくマリオに秘密にしていた。
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by soranosanngo | 2012-05-03 17:04 | HIKARU果実【ルチアの物語】 | Comments(0)