とんかつ日和

 直子に割り当てられた場所は運良く窓際であった。
 
 数日の仮住まいの予定とはいえ、六人部屋で窓際に当たる確立は三分の一。歳末大売出しなどのガラガラで、いつもポケットティッシュしか当たらない(それは参加賞を意味しているので、当たるという言葉は妥当でないかもしれない)直子は考える。こんなちっぽけなことでも、人は運、不運を考えてしまう不思議な思考回路を供えた生き物であると。
 そして幸運に恵まれたと思っていても、果たしてそれが本当の幸運とは限らない。不運もまた然り。
 例えば、この窓際のベッドは陽がさんさんと降り注ぎ、五階の窓から見える人工的に作られたような庭が見下ろせ、いかにも心がやすらぎそうだ。しかし必然的に浴びてしまうであろう紫外線の量はどうであるか。一番多いであろうことは容易に想像がつく。それが最近気になり始めたしみをもうひとつ増やす原因となるかもしれない。
 
 ――幸運と不運は表裏一体のコインのようだ。
 
 そんなことより、ここに入院しているということは、直子と同じような病人であるということだろうから、別次元で考えると、幸運とは程遠い六人である。そこまで考えて直子は顔には出さず、苦笑いした。「直子の理屈っぽいところ、案外好きさ」とかつて言った男のことを思い出したのだ。二年つきあって、別れた。男は既婚者だった。
 それから直子の理屈っぽさを愛してくれる男は現れない。そのせいか理屈っぽいという世間一般からしてみたら、長所とはいえない性格の一端に拍車がかかったような気がしていた。誰かに聞いてもらえれば、どんなへんてこな理屈でも一応は終結するものだ。けれどひとりごとは違う。時間のある限り、自由に伸びていく。豆のつるのように。そして寄りかかるものあれば、巻き付き、それが幸運にしろ不運にしろ、取り込んでしまう、厄介なものである。
 もしこれから先恋愛のない人生を送るとしたら、あれが最後の恋人ということになる。
 始まる時、もう既に、どこか後ろめたさが伴う恋愛だったが、「最後の恋人」そんな称号を与えればがぜんロマンチックめいたものが漂うのはどうしてだろう。玩具箱のなかに無造作に放り込んであった、がらくたのひとつに、帝政ロシアのロマノフ王朝の最後の皇帝ニコライ二世のマトリョーシカだという、ひとつのモノガタリを加えてみればどうか。たとえ眉唾ものだと思ってみても、その価値がたちまちつりあがってしまうことだろう。
 やはり人間は不思議な思考回路を備えた生き物であると直子は思った。

 都会にも自然はある。東京には空がない、などと東京生まれ、東京育ちにの直子は、今まで一度たりとも思ったことはなかった。春になれば蒲公英がほこりっぽい空気の中で咲く。夏になれば新宿御苑の蝉たちはけたたましく鳴きわめく。花は花であり、虫は虫であり、空は空である。
 新宿の病院とはいえ、窓から咲き始めた桜が見えたのもさほど驚くことではないかもしれない。
 直子が下着やら湯のみやら、身の回りのものを、ひと通り備え付けの小さなロッカーに納めていると、直子の弟がやってきた。直子のベッドにたどり着くまで、お世話になります、と同室の人にぺこりとお辞儀しつつ歩いていくる。
「わざわざ会社休んでくれなくても良かったのに」
「いや、どうせ有給たまってたしさ」
「悪いね。あさっての手術の日もお願いね。身内が立ち会わなきゃならないらしいんだ」
「わかってるって。大丈夫だよ、心配しなくても。決算終わったばかりだし。ふうん、わりかしいい眺めだね」
「桜はあんまり好きじゃないけど」
「まあ、そう言うなよ。寝ながら花見なんて贅沢な話だよ」

 五年前に末期の子宮癌と診断され、あっけなく直子たちの母が逝ってしまったのも桜の季節だった。
「ねえさん、お昼とんかつ食べにいこうよ」
「えっいいの? 病院で食べなくても」
「さっき看護師に聞いたら、外出届けを出してくれたらいいですって」
「そうなんだ、案外病院も自由なのね」
「消化器系に病気があったらだめだろうけどさ。今日は入院手続きしたら他にやることはないんだって。明日は手術前の検査がいろいろあって忙しいらしいけどさ」
「やだなあ、注射や点滴されるのかなあ」
 直子は無意識に腕をさすっていた。病院で何度か採血したが、いずれも一度では血管に入らなかったのを思い出していた。そしてそのあと、一週間は青痣になる。青い内出血は次第に黒ずみ、そして黄色くなっていく痛ましいさまは、まさしく病葉のようであった。私の血管も母譲りなのだろうかと直子は思い出していた。入院していた母の腕も同じように青痣が絶えることがなかったのを。

 直子の子宮にはどうやら癌が出来ているらしい。先月受けた検診で見つかった。  
 手術はあさってを予定している。女に産まれたのに、一度もその機能を使わずに捨ててしまうのは、やはり哀しい。四十歳になるまで商社の総合職で頑張ってきたことに後悔はない。結婚を選択しなかったことにも後悔はない。けれど、あの時産まなかったことだけに対しては後悔している。
 もしあの時自分の未来を知ることができたら、産むという選択をしただろうか。シングルマザーとして子どもを育てていく覚悟が持てただろうか。今となっては考えても仕方のないことなのだが、つい考えてしまうのだった。
 けれど命を闇に葬ったことは事実であって、一生自分をさいなんでいくだろうと直子は思っていた。
 子宮癌と診断され、それもまったくの早期ではなく、医者に全摘出を勧めらた時には動揺した。冷静になって考えれば、私に一番不必要な臓器ではないかと強がってみせた。実際のところ、母が同じ癌を患い亡くなったことは、いつか自分もそうなるのではないかと心のどこかで怯えてきたのだった。直子の病名は子宮頸癌なので、原因は遺伝などではなく、ウィルスであるということを知った今でも、なんとはなしに同じ病気に罹った母との符号に、奇妙なものを感じずにはいられない。
 そしてそのことが紛れもない現実となって、不思議なことに、ほっと胸をなでおろす自分に気づいたのだった。いつか癌になるんじゃないかという不安から開放されたのだった。
 そして生きることを最優先にしようと覚悟し、手術で子宮を摘出することを決めた。後悔しながらでも、やはり生きていたい、そう強く思うのだった。

  直子も年子の弟も父の顔を写真でしか知らない。直子がまだ三歳のころ、交通事故で亡くなった。
「ねえ、誰かいい人いないの?」
「なんだよ、やぶからぼうに」
 直子は声をひそめる。
「だって、もしも、もしもよ、手術が失敗して私が死んだら、あんた、天涯孤独よ」
「大きなお世話だよ。そんなに心配だったら、死ななきゃいいじゃんか」
 弟はぷいっと横を向いた。そんなところは幼い頃とちっとも変わっていない、来年には四十(しじゅう)になる男を可愛いなんて思う女は私以外に現れないのだろうか。
 弟がネットで調べてくれた「とんかつ伊勢」は、病院からタクシーで十分ほどだった。新宿のNSビルの二十九階にある。ここでも運良く窓際の席に案内された。
「わー富士山が見えるよ。すごいわ」
「今の時期は空が霞んでるから、こんなにくっきり富士山が見えることは少ないのに、ラッキーだよ、ねえさん」
「富士山、一度くらいは登ってみたかったな」
「退院して元気になったら、連れてってやるよ、いくらだって」
「私、ひれかつ定食ね」
「どうせなら上ひれかつにしなよ、奢るからさ」
「いいの? ありがとう。そういえば、運動会の前の夜は、母さんいつもとんかつ作ってくれたね。ちょっと揚げすぎみたいで、衣が焦げ茶だったっけ。このメニューの写真のように、いかにも美味しそうな黄金色の衣じゃなくてさ。食べ始めると必ず、どう? ちゃんと揚がってる? 生っぽかったらいうのよ、って言ってたっけ。でも、あのとんかつの味は、格別だったっけ。なんか明日は頑張ろうって思えたもの」
「うん。験担ぎだったんだろうね。今だからいうけどさ、あれ、俺は嫌だった。俺、走るの苦手だったからさ。なんだか無言のプレッシャー感じちゃって」
「えっそうなの? いつも美味しそうにたべてたじゃない、あんた」
「いや、とんかつは大好物だったんだけど」
 小学生の時、弟は少々肥満体質だった。おまけにチビでメガネをかけていた。当然といえば当然のように、それをはやされ、いじめっ子たちの標的になったことがあった。チビデブメガネと言われて泣いて帰ってきた弟に直子は
「チビが嫌なら牛乳を飲んで背を伸ばすのよ。デブが嫌なら運動して痩せなさい」
 と言ったことがある。幼いなりの精一杯のアドバイスだった。フルタイムで忙しく働く母に心配かけたくない、口に出して言ったことはなかったが、それが直子と弟の心にいつもあったようだ。それからしばらくは暗くなるまで縄跳びをする弟に、直子も一緒になってつきあったことがある。効果のほどはあまりなかったようだが、中学に上がると、自然に痩せて、背もいつのまにか直子を追い抜かしていった。大学生になって、バイトしてメガネからコンタクトレンズに変えていた。
 チビデブメガネはもう直子の想い出の中の弟でしかない。そして今はもうそのどれも当てはまらないのだった。
「でもさ、勉強は私なんかよりよく出来たよね。母さんの自慢の息子だった」
 そして直子は、弟が優しい心根を持つということを、誰よりも知っていると思った。
 私たちはずいぶん遠いところまで歩いてきたようだ。ふと気づけば、幼かった姉と弟は、すっかり大人になってしまっている。
 人生に勝ち負けがあるとしたら、私は買ったのか負けたのか。いいや、そんなこともういいではないか。一緒にとんかつ食べてくれる人がいる。それだけで幸せだと思おう。
「験担ぎ……そうか、手術に勝て、こと? もしかして」
「今頃気づいたのか? ねえさん、遅すぎ、ていうか鈍すぎ!」
 二人して肩を震わせて笑っていたら、ウエイトレスが注文を聞くためであろう、一点の迷いもない足取りで、自分たちの席のほうへ歩いてくるのが視界に入った。
 直子は目頭に少しだけ滲んだ涙を、人差し指でそっとぬぐい、窓の外に広がる風景に再び目をやる。
 
 東京にもこんなに美しい空があったんだ。
 
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Commented by nazunakotonoha at 2013-09-24 20:54
しみじみと兄弟っていいものですね。幼い日から同じ思い出や親への気遣いを共に持っている。ふたりが良い関係なので 何だか嬉しいです。
病気の話なのにふわっと幸せになれるお話でした(^-^)
Commented by soranosanngo at 2013-09-25 16:02
なずなさん、コメントありがとうございました。
私にも弟はいますが、お互いに家庭を持ちましたので、ほとんど接点がなくなってしまいました。
けれど幼い時一緒の思い出を共有していて、何かあったらまっさきにかけつけてあげたいです。同じ子宮から出てきたわけですから。

by soranosanngo | 2013-09-24 15:05 | 時空モノガタリ(掌編小説) | Comments(2)