猫探偵 【ショート グッドバイ】

 とある雑居ビルの二階の南西角部屋がワタクシ『猫探偵』の住居を兼ねた事務所である。午前八時きっかりにドアが開く。事務員の時子さんの出社だ。何事にも正確であることをモットーにしている。

「おはようございます、先生」
 今日もただの一本の後れ毛もなく髪を頭頂部でシニヨンでまとめ(はやくいえばひっつめ髪ですな)そのためいくぶん目尻のシワは伸ばされ若干つり目になっている。見た目はとても五十歳には見えないだろう。朝のおじぎは三〇度。さっそくいつも通り掃除を始めた。
 
 もともとは彼女は客で、ご主人が行方不明になり捜してほしいという依頼主だった。
 ある日ちょっと出かけてくると言ったまま一週間も帰ってこないという。結局その案件は、残念ながらコールドケース(未解決)に終わった。夫には借金もなく、愛人もなく、いたって健康で病気を苦にして自殺なんていうことも考えられない。
 
 街のあちこちに偵察させていた野良猫調査員(そのほとんどがワタクシの子供及び孫であるのだが)たちによると、夫は東京駅から成田エクスプレスに乗り、そのあと成田空港で日本航空のボーイング737に乗ったという。
 行き先はインドでした、と告げると、彼女は「あっ」と言って目を見開いた。まるで大事な約束を長いこと忘れていて、取り返しのつかない段になってようやく思い出したかのように。

 ──時間にすれば一分程度であろうか。宙をみつめて彼女は無言だった。ちょうど換毛期であったため、抜け落ちたワタクシの白い幾本かの冬毛が浮遊し、夕日に光っていたのをまるで昨日のように覚えている。

 夫婦がまだ若かりし頃夫が言っていたそうだ。いつかインドに行くのが夢だと。もともと大学の哲学科で学んだ彼は、人の幸せとは? とか人はどこへ行くのだろうか? といった類の小難しいことが大好きであったという。
 
インドが俺を呼んでいるんだ、いつか一緒に行かないか、とも。しかし時子さんは「私、カレー嫌いなのよね」と答えたそうだ。それきり夫はその話は一切しなくなり、夫は銀行員として定年まで勤め上げ、自宅のローンも完済したらしい。一人息子は社会人となって独立し、今がその時だと思いたったのではないか、と時子さんは言った。

「お見事な推察ですね。あなたには探偵の素質がおありになるようだ」
 ワタクシが褒めると時子さんはまんざらでもないように微笑んだ。
「でしたら是非ここで雇って下さいませんか? 夫が帰ってくるまでぼーっと家で待っているのもなんだかねえ」
 
 そういった経緯でここで働くようになったのだ。時子さんが来てからというもの仕事が増えた。主婦仲間にこの事務所の宣伝をしてくれたらしい。たいていが簡単な探しものだった。最近した仕事といえば、何年も行方知れずだった主婦の結婚指輪を糠床から見つけ出したというもの。指輪はすっかり糠みそ臭くなっていたが、取り返しのつかないほどの臭いではなかった。
 
 時子さんの推察は当たった。しばらくすると夫からエアメールの絵葉書が届くようになったらしい。消印はインド。
「それにしても、なんで黙っていってしまったのかしら。ちゃんと言ってくれてったら、こんなに心配しなくても済んだのに」
 
 人はなかば衝動的に何もかも捨ててしまいたい時があると聞く。新しい自分探し、という大義名分をつけて。それを旅と呼んで特別視する。つくづく人は厄介な生き物だ。
 およそそんなところではないかとワタクシはふんでいるのだが。

「そうだ、時子さん、明日から一週間ほど事務所を閉めます」
「はい、わかりました。例のアレ、ですわね」
 時子さんはソファーをコロコロで転がしながら、さも大変ですわねといわんばかりの同情にも似た表情を浮かべた。そう、猫には一年に何度か発情期があるのだ。大分人間に近くなったとはいえ、ワタクシも猫のはしくれであることを思い出す。

「えーと、それでは戸締り、よろしく頼みます」
 そわそわ、もぞもぞ、いやウキウキしながらワタクシは事務所を出た。
「行ってらっしゃいませ」
 
 時子さんに深々と四十五度のお辞儀をして見送られた。なんだか照れくさい。人の(いや、猫か)恋愛なんてそんな大層なモンじゃないのに。
 
 その時はっと気づく。時子さんの夫はこうやってご丁寧に見送られるのが嫌だったのではないか。時子さんのことだ。朝、夫が仕事に出るたびにこんな風にお辞儀して何十年も送りだしたに違いない。とすれば、インドへ行くと言えば、同じように深々とお辞儀して(もしかして目に涙など浮かべて)送りだすに違いない。
 旅に出る時、それも何もかも放って行く時は軽く手をふってもらうくらいがちょうどいいというものだ。男とはなんと厄介な生き物であることよ。

 ──ミャーオゥゥ
 ワタクシを呼ぶ雌猫の悩ましい声が聞こえる。期間限定とはいえ、旅というものは心踊るものである。
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by soranosanngo | 2013-10-13 17:19 | 時空モノガタリ(掌編小説) | Comments(0)