「白百合のかをり」

 図書係はたいてい暇だ。中学校の図書室で本を借りる生徒は少ないし、いてもなぜか皆無口なので「お願いします」等必要最小限しか話さない。
 で、私は思うのだ。図書係に貸し出しカードを渡すという事は、自分が何を借りたかを知られてしまう可能性があるという事。そんな恥ずかしい事を赤の他人の私ごとき女子に知られてしまうかもしれない事実を前にして、やはり人は無口にならざるしかないのだ、と。 
 でも私は差し出されたカードを見る。悪いと思いつつ黒い誘惑に勝てない。
 貸し出された本のタイトルの履歴は、その人の心の深い場所につながる。もちろん見てないふりでさりげなく見る。
 生物部の部長のカードには『サンショウウオ大辞典』『悪魔のツノガエル』など両生類の分野に偏っている。カードを差し出す部長の指の間に心なしか水掻きがあるような、ないような……。

 「ワタシも本を借りることは出来ますか?」 貸し出しカウンターの中でロクでもない妄想にふけっていたら、急に声をかけられ、あたふたと顔を上げた。
 この人は確か、書道の先生だったっけ。
「はいっ。もちろんです。この貸し出しカードに名前とか記入して下さい」
「ありがとう」 
 記入を終えた先生から渡されたカードには、達筆な文字が並ぶ。そりゃそうだ、書道の先生だもの。 
 名前は松尾宗房。男子に丸。ごていねいに住所まで書いてある。年齢は二十九歳。にじゅうきゅーさい! ってめちゃくちゃ老けてる。ぼさぼさの眉毛、鼠色の着物。髪も薄い。私の父親と同じ四十歳くらいかと思った。 
 松尾先生が「ぐふふ」と笑って「あなた、今、老けてるって思いましたね」と言った。
 つい私は「はい」と答えてしまい、慌てて「すみません」と頭を下げた。 
 先生は「いいんですよ。この時代の方からは、いつもそう言われますから」と言った。
「この時代の人?」「あなた、ええと、千野さん?」先生の目線が私の胸の名札と顔を行き来する。
「はい、せんのさりゅう、といいます」
「ほおー、よい名ですね。つかぬことをお聞きしますが、千野さん、あなたは口が堅い方ですか?」 
 私の名前を褒めてくれたのは二人目だった。砂粒と書いてさりゅうと読む。
「堅いといえば堅い方かと」 
 二年生になるというのに学校生活に馴染めていない私は、しゃべりたくともしゃべる相手がほとんどいない。
「よろし。ではワタシの秘密を打ち明けましょう。ワタシは、はくたいのかかく、なのですよ」
「はあ」
「それが世間に公になると少々都合が悪い。くれぐれも内密にお願い致します」 
 意味がよく分からない。
 もしかしたら私は先生にからかわれているんだろうか。
「とはいっても、白百合が咲く頃には、また元の地に戻るつもりですが」
「白百合ですか」
「はい、白百合です。あの花の香には不思議な力があるのです」 
 白百合の香りなら知ってる。砂鉄の法事の時に仏壇に供えらた花の清涼な香りを想う。 

 私には兄がいた。名前は砂鉄。享年13歳。生きていればとっくに成人している。
「サテツが生きていればうちの病院を継いでくれたに違いない」と父は何かにつけて嘆いた。
 そう言われるたび私はサハラ砂漠に飛んで行きたい気持ちになる。何の価値もない、すなつぶ。
 ごめんなさい。兄を殺したのは私だ。川で溺れた私を助けようとして、兄は亡くなったという。その時三歳だった私には、その事故も兄の記憶もない。 
 写真の兄の顔はどれも笑顔で、私は兄を憎む事も出来ない。その笑顔は、その時カメラを構えていただろう父に向けられたものだと思うと、父も憎む気にもなれない。母はつとめて笑顔を装っていたが、時折その視線は私ではない場所へ向けられているのを知っていた。

「不思議な力とは何ですか?」
「天空と時を行きかう力です」
「まるでタイムトラベラーですね」
「信じていただけないのかな」 
 信じろという方が無理な話だ。タイムトラベラーの本は何冊か読んだことがあったが、現実のものとは到底思えない。けれど先生が少し悲しそうな顔をしたので、私は嘘を吐いた。人の悲しい顔は見たくない。その為に嘘を吐くことなど何でもない。
「いいえ、信じます」 
 信じると言葉にしたら、それは言霊になって自分に返ってくると何かの本で読んだ。信じるということは、最強の自己暗示だ。
「ありがとう、千野さん。なら、お尋ねする。あなたがもし、はくたいのかかく、になれたらどこへ行きますか?」
「三歳の頃に行きたいです」
「ほおー、それはなぜでしょう」
「それは……三歳の頃、兄は私を助けようとして亡くなりました。死ぬべきは私の方だったのです」 
 蓋をしてきた感情が、濁流になって押し寄せてきた。
「私が川に行かなければ、そうすれば兄は死なない。そうでしょう、先生」
 今まで誰にも打ち明けたことのない心の奥底を、通りすがりの先生にさらけ出していた。通りすがりの人、だったからかもしれない。
 図書室が無人でよかった。涙と嗚咽と鼻水で私の顔面はさぞやひどいものになっているに違いない。 

 全てを静かに聞いた先生は着物のふところから取り出した手拭いを私に手渡して、こう言った。
「ワタシも大切な人を亡くしました。はくたいのかかく、になったのはそれからです」 
 手拭いで涙を拭いた時、かすかに白百合が香ったような気がした。 先生が借りていった本は、日本旅行ガイドブックだった。 

 これが、書道の先生との顛末。 
 そう言うと、松山君は「ふうん」と言って、宙を見上げた。 
 行きがかり上、私の兄の事も話すことになってしまったのだけど、それについて何も触れてこないのが彼らしい。彼が持つ人との距離の物差しは、とても優しい。そっと寄り添われている気になる。自惚れか。自惚れだ。 
 彼は私の名前を褒めてくれた世界で初めての人であり、私の口を唯一軽くさせる人だった。
「松尾先生、今日も学校に来なかったみたい。手拭い返したいのに」 
 書道の授業は一学期だけで、松尾先生はその講師だった。
「先生は貸し出しカードに住所書いたんだろ、家に届ければ?」
「簡単に言うね。私、とてつもない方向音痴なんだからっ」
「なんだからって、胸張られてもなあ」
「お願い、一緒に来てくれない?」
「どうすっかなぁ」
「駅前でアイスクリン、おごるから」
「あれ、旨いよなあ。仕方ない、手を打つか」
「わ、ありがとう」 
 先生の家は電車で一駅。電車を待つ間、私たちは昔ながらの手作りアイスクリンをなめながら、とりとめもない話して笑った。
「まるでデートみたいだね」と私が言うと、彼は「しまった。人生初のデートなのに、制服じゃん」と天を仰いだ。 
 人生初のデートという言葉が胸の中でこだまする。顔がにやけてしまわないように、私は嬉しさを奥歯をぎゅっと噛みしめた。 
 でもね、松山君、今の私たちに一番似合うのが、汗まみれの制服なんじゃない? 制服に袖を通して暗い気持ちになる朝もあるけど、制服を着ることが許されていて、私たちはそんな季節のただ中にいる。兄も着ただろう、彼の夏服のワイシャツの白さを、まぶしさを、ずっとこの先のとある季節、なにかの折りに思い出すだろう。そんな気がした。 
 隣の駅に着き、彼が交番で住所の行き方を聞いてくれた。バスの乗る。バスは次第に山道を上り始め、二十分ほど行った所のバス停で降りた。 
 先生の住所とおぼしき場所には、廃屋と呼んでも差しつかえなさそうな一軒の平屋が建っていた。埃だらけの木の表札に「松尾」という毛筆で書かれた文字がある。チャイムらしきものはなく、玄関には鍵がかかっている。何度も「松尾せんせー」と呼びかけたが、返事はなかった。 
 留守というか住んでいるのかも疑わしい気がしたが、仕方ないので私は手拭いの入った袋を傾いたポストへ入れた。
「誰かね?」 振り向くと、野良着のおばあさんが立っていた。
「松尾先生に用があって」
「松尾先生? そういや松尾さん、習字を教えてるって言ってたな」
「はい。私、生徒なんです」
「またどこか旅に出たんだろうさ、いつもそう。長いこと帰ってこないよ」
「そうなんですか」 
 去っていくおばあさんを見送ったあと、私は松山君がいないことに気づいた。どこ行っちゃったんだろう。家の裏へ回ってみた。驚いた。一面、白百合が咲いてる。
「おーい、こっちに来てみ」 
 手をふる彼の方へ行ってみる。
「何、これ?」
「井戸だね」
「ずいぶん、古そう」 
 井戸には竹で編んだ蓋がしてあり、覗き込んだら真っ黒な底が広がっていた。
「ちょっと怖い」 
 私はとっさに彼の腕をつかむ。数秒後あわてて手を放したのだが、彼は何やら考え込んでいて気づいていない。
「松尾先生は、やっぱりタイムトラベラーだったんだ! はくたいのかかくって言ったんだろ」
「知ってるの? はくたいのかかく」
「奥の細道だよ。『月日は百代の過客にして、行きかう年もまた旅人なり』松尾芭蕉だよ」
「先生が松尾芭蕉?」
「そう。百代の過客は、永遠の旅人って意味。行きかう年は、行ってまた戻ってくるっていう意味なんだ。時間を行っては戻る、それこそタイムトラベラーだからこその実感じゃない? 松尾先生は、白百合の香りと共にこの井戸を使って時を行き来する旅人だ」
「じゃあ、私も旅人になる。三歳に戻って兄を……」 
 私は体ごと白百合畑にダイブした。松山君が叫ぶ。
「だめだ。タイムトラベラーは過去を変えてはいけないんだ。僕らはこの現実を生きていかなきゃならないんだ」 
 わかってる。前に読んだSF小説に書いてあった。ごめんね、兄さん。ごめんね、百合の花。
「さあ、そろそろ帰ろう」 
 松山君が私の手を取る。
 温かい。
 彼も私の体温を感じているのだろうか。 
 そうだね、私たちは、残酷で、だけど愛おしい今だけを生きていく。
 さよなら、松尾先生。 
 帰りのバスの中に私が浴びた白百合の香りが満ちていった。

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Commented by tobetonbi at 2018-09-06 22:54
懐かしいものを刺激されました。
中学生のとき、あこがれてた女の子。
その子と、図書室で彼女が図書委員でカウンターにいて私が本を借りた。
そのとき少し、話をした。

彼女は「イチゴ白書」という映画を観た話をしてくれた。
後から知れば、社会問題に目覚めた青年が彼女と政治集会に行ったりするが、結局は平凡なサラリーマンの道を選び、彼女とも別れる話。

でもそのときは、そもそも社会問題なんて分からない。私は子供。
でも彼女はオトナになりかけていて「イチゴ白書」に感動した。
お互いに好意を持ってたはずだけど、会話が成り立たなかった。

そんなすれ違い。いいおじさんになった今でも、切ないな(笑)
Commented by soranosanngo at 2018-09-07 09:37
> tobetonbiさん
素敵なコメントありがとうございます。
切ない恋の話は、いつ取り出しても切ないものですね。

by soranosanngo | 2018-09-06 13:51 | 時空モノガタリ(掌編小説) | Comments(2)