カテゴリ:散文詩( 4 )

門扉を開ける。ギイと年老いた音がした。かつては瀟洒だっただろう屋敷も、もう何十年も手入れされていないのが伺える。年老いて、あとは朽ちてゆくのを待っているかのようにも見える。玄関までの石畳の脇には、すすきが勝手気ままに群生している。もう私の手には負えそうもないほどに。大きな棕櫚の樹からは、どこからつながっているのか知らない葛がぶらんと垂れていた。

玄関のチャイムを鳴らす。ブーと中で音がした。この音は好きじゃない。クイズで答を間違い、バツを出された時の効果音みたいで。しばらく待っていたが、応答はなかった。いつものことだ。コトヒラさんはまだ眠っているのだろう。私はナイロンのトートバックの内ポケットのファスナーを開き、合鍵を取り出し、それを鍵穴に差し込んだ。がちゃり。この音は好きだ。正解、と誰かに言ってもらえたみたいで。
正解のあとは扉が開く。

「おはようございます。家政婦のホシです。おじゃましますね」家の中は昨日と同じ。しいんとしている。
キッチンへ行き、エプロンを取り出す。薬缶に水を注ぎ、火にかけてから、居間へ行き古い石油ストーブを点火した。大きな暖炉があるが、それを使ったことはない。もとより暖炉にくべる薪はないし、仮にくべたとしても、三十畳はあるだろう広い居間を暖かくするには相当な時間がかかると思われた。かつてはパーティーなども催されたのかもしれない、暖炉の華やかに燃える火を想像する。この家のそこかしこには、そうやって失われた時間が今も息づいている。 

朝ごはんの支度を整えていると、コトヒラさんが現れる。壁にかかげられた大きな振り子時計が9時を告げた。「おはようございます」「おはよう。ホシさん」 良かった。私は安堵する。今朝はちゃんと私のことがわかるようだ。時折、私のことを娘だと勘違いすることがある。ホシさんが認知症かどうかは知らないけれど、そんな時は私は娘のふりをしてやり過ごす。誰かの娘として産まれてきたのに、私はその誰かを知らない。多少なりとも知っているコトヒラさんのことを一時的であっても母と思うことは、正解ではないにしろ、ブザーを押されるほどのバツではないだろう。或いは、私はコトヒラさんの間違いにバツを出すチャイムではないし、小さな嘘は少し楽しい。
「あら、雪じゃない?」 コトヒラさんが窓を指さす。窓の外を見たけれど、私には見えなかった。けれどコトヒラさんには見えたのだろう。コトヒラさんにだけ見える雪というものが世界にひとつくらい存在してもいいではないか。
「モスクワに住んでいた頃を思い出すわ。モスクワで雪が降ると、今日は暖かいわね、と人々は笑ったものよ。日本では寒いわね、と言い合うのよね。どちらにしても雪はきれいね」
人は、口にした瞬間、言葉が物語になることがある。本当かどうかなんて、どちらでもよくなるのだ。おかあさん。顔さえ知らない誰かに向かってそう呼ぶことはもうないだろうが、コトヒラさんに向かってなら呼べるかもしれない。揺れている葛がこの世でどこへも繋がってはいないのなら、葛を引っ張ってそれを確かめることなどしない方がいいに決まってる。
「そうですね」 東向きの窓を朝陽が照らしている。ずいぶん汚れている。今日は窓ふきもしようか。
「ホシさん、お正月はどこで過ごすの?」
「私ですか。特にどこへ行くってこともないですけど」
「だったら一緒にハワイへ行きましょうよ。ハワイはいいわよ。あったかくて」
「いいですね」 
私はコトヒラさんの空になったティーカップに紅茶を注ぐ。トーストとハムエッグはそれぞれ半分しか食べられてない。この頃めっきりコトヒラさんの食は細くなっている。白い湯気が立つ。カップを手にしたコトヒラさんの古びた茶色のセーターの袖口には小さな虫食いの穴が開いていた。 その穴の向こうにこそ、コトヒラさんの真実が隠れていそうで、私は眼を凝らす。80か、90歳かもしれないコトヒラさんの肌はほどよく枯れている。枯れてそして死ぬことは正解なんだろうか。柱時計が9回鳴っても、コトヒラさんはやってこない、そんな日が音もなく来たら私はどうしたらいいのだろうか。

モスクワの雪もハワイの雪も元は水。私の中にもその水はあるのに、どちらも永遠に解けないクイズのようでしかない。

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by soranosanngo | 2017-12-11 11:09 | 散文詩 | Comments(0)

牧歌

 ましろな朝。静かな朝。まだ誰も踏んでいない雪はどこまでも、白い。

「雪とけて 村いっぱいの 子どもかな」小林一茶

 雪玉を投げ合う無邪気な子どもたちをみつめるまなざしのなんて優しいこと。
 想像するに、冬の間なんとか命をつないできた決して豊かではない山村において子どもは希望だったのだと思う。宝だったのだと思う。春だったのだと思う。

 優しい、と、易しい、は とてもよく似ている。
 優しさは日本人の血の中に脈々と受け継がれてきたものだし、易しい言葉というものは、一見軽い羽のように見えるが、実は砂金のように心の奥底に沈殿していく。現代詩という得体のなさに時に塞がれたようになっていたわたしの心が、今日なぜかこの一句の易しい言葉たどりついた。

 現代において「牧歌」は失われてしまったのだろうか。
 いいや、わたしはそうは思わない。もちろん本来の意味での牧歌は日本では失われてしまったかもしれない、
 家から出ずとも世界の果てまでネットワークでつながった現代においても、実は人の心はそう変わらないのではないか。

 ほら、あともう少ししたら子どもたちが公園に集まってくるはす。わらわらと。子どもたちによって踏まれた雪はやがて茶色の泥水になって、土に染み込み、そのゆくえは知りえないものだけど、たぶん私たちは直感で既に知っている。春へつながってゆくことを。
 きっと。
 春はもうそこまで来ているような気がする。とても寒い朝なのにねえ、雀よ。
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by soranosanngo | 2014-02-08 10:16 | 散文詩 | Comments(2)

アオミドロ

 
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 見えなくてもそこのあるものは、実際のところ世の中にあふれている。見えなくても聴こえる。見えなくても、そこに存在する。決してオカルトではなく、事実なのだ。
 実家の家の前には、かつて小さな川が流れていた。立ち並ぶそれぞれの木造の日本家屋の前には、似たような灰色の石やコンクリート造りの橋がかかっていた。あの橋は家の敷地の一部だったのだろうか。とすると、川の空間の一部をそれぞれの家で所有していたことになる。
 川の水は、底のアオミドロが手に取るようにわかる穏やかな日もあれば(緑色の髪の毛のように長い藻のことを私たちは気軽にそう呼んでいた)台風の去った後などは増水して、子供心にも尋常ではないと思われる地面すれすれの高さに成長し、荒れ狂った濁流として流れていくのだった。
 時々道路で近所の子らとボール遊びに興じていると、手元を狂わせたボールは、時にその川に落ちてしまった。勝負は大きな道路までの数百メートルで、そこから先はずっと地面の蓋が続き、もうボールを取ることは叶わない。先回りをして川に降り、ゆるゆると流れてくるボールを待ち伏せして取れれば良し、そうでなければ、ボールは最終ゴールに子供の歓声を受けながら吸い込まれていって、海まで流れていってしまい、もう二度と手には戻らなかった。結構スリリングな瞬間だった。
 私は幼くて記憶がないのだが、免許を撮ったばかりの母親が私を助手席に載せたまま、何をどう間違ったのか(初心者はいすれにしても何かの拍子にトチ狂うものであるが)車幅ぎりぎりの橋から落ちてしまったこともあるという。今年七十四歳になる母親はそれに懲りずに今も運転しているのだから、いろんな意味で、恐れ入る話である。
 増水した川に子供が落ちて亡くなったと噂が広まったこともある。真偽のほどはわからいが、橋に腰かけていたのが仇となり、どういう訳か後ろ向きに落ちてしまったという。 私はそれを聴いて二度と気軽に橋の縁に腰掛けることを止めた。背もたれのないそれの危うさに心底おびえた。生きているものは、死に対して永遠の初心者であるものなのだ。のんきな日常が実は死を手の内に隠していることをを知った。
 それが原因かどうかわからないが(単に市街化計画だったのだろうが)数年後橋は撤去され、川は道路の下に隠されてしまった。実家も建て替えられ、大きな柿の木は切られ、庭はつぶされ、駐車場になり、山羊を遊ばせた空き地には立派な七階建ての病院が建っている。整然として便利な街となった。いちいち自分専用の小さな橋を渡るという面倒な手続きを踏まずとも、行き来できるようになった。もうあの頃の風景は、一見するとどこにもない。
      ◇
 橋は外界と自分とを結ぶ、あるいは異界の上に渡された通路であったようである。

 見えなくてもそこにある。

道路に耳を当てれば、音が聴こえることだろう。ボールを飲み込み、若い母親の運転する車を飲み込み、子供を飲み込み、今はもう陽のささない暗闇で、川の水が流れていく音が。
それに付随して、アオミドロのなにかを手招きするような、奇妙な触手が私を捕まえにくるのだ。
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by soranosanngo | 2012-01-28 08:40 | 散文詩 | Comments(0)

金魚

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 梅雨の晴れ間に射す陽光は、目に眩しい。この図書館の処々にはステンドグラスのはめ込み式の窓がある。陽がない日には、くすみ、精細を欠くその窓も、今日は冴々と色を発色させて美しい。ステンドグラスが教会に使われているのは、(主にそれらの絵に聖書をモチーフにしたストーリーのあることが多い)文字の読めない信者にも、わかりやすく教えを説くため、といつだったか読んだ本に書かれていた。教会で彼らはそこに天国を見ることだろう。朝日が刻々とそのステンドグラスに命を与え、きらめく色の美しい世界に、まだ見ぬ楽園の地、まさしく天国を感じることだろう。 
 私は無宗教である。天国も地獄も同等に信じてはいない。死んだらそれで零になる。肉体が滅べば、それに付随する精神世界もそこで終わりだと思っている。骨はもはや思考しないのだ。もし私に守るべき家族がいたなら、どうであったか。自分が死んだのちのことをあれこれと心配しなくてはならないかもしれない。家訓をしたためたり、遺言にはどう書くべきか、死後の家族のありように心悩ませるかもしれないが、幸いなことに、家訓も、遺言も、配偶者も、子供も持たない、天外孤独な身の上だ。いずれ無縁仏となることについては、不幸なことに、と言い直すべきか否か。
 ウィークデイの図書館には、私のように暇を持て余したリタイア組と思われる初老の男が多い。ぼやけた色あいの服に、薄くなった頭頂部を隠す、これまた似たような、くたびれた古帽子。いずれも見たような顔ばかりだ。私も新聞はとうの昔からとっておらず、ここで読むのが日課である。年金のみの暮らしをどうにか立ちゆかせるための、ささやかなやり繰りである。そうして、ゆうに二時間はかけて五社のそれを読むのである。それだけで、たいくつな一日が残り二十二時間になるのだから、悪くない時間の使い方であるだろう。

 そろそろ腹が減ったので、本を二冊借りて帰ろうと、貸出しカウンターに並ぶと、前に居る幼い少女が
「キンギョサン、オフロ、ハイッテルヨ」
 と指さして言う。カウンターの上に四角い水槽が置いてあり、二匹の赤い金魚がゆらゆらと泳いでいる。緑の水草に戯れるようにして。すると、不意に現れた老人(見た目は私より十(とお)は上だろう)が
「オフロではない、風呂に入ったら金魚は死ぬ」
 と抑揚のない、しかし無駄によく通るバリトンを響かせて、去っていった。カウンターの中で作業していた女の手が一瞬止まる。少女はびっくりしたのだろう、傍らの母親らしき女の太ももあたりに抱きついている。無性に腹がたち、「じいさん、だまってろ」と言いたかったが、言えなかった。じいさんがおしなべて皆 優しく枯れると思ったら大間違いで(ばあさんもたぶんそうだろう)偏屈じじいになるには、なるだけの理由があるのかもしれないが、孤独で侘しい老人であっても(老人は死に近い生き物なので、たいてい孤独であって侘しいものだが)少女の風呂で、楽しい空想の風呂で共に遊べるじじいでありたい、と私は願う。
 外へ出たら、海のような空に、くっきりと虹が渡っていた。虹の上を渡れないと知って失望したのは、果たしていつごろだったろうか。先ほどの少女は、どうだろう。もし信じているのなら、共に、ここではない何処かへ渡ってみたいものだ。
 虹を渡ったその先に天国というものがあるとしたら、信じてはいないが、想像するのもきっと楽しいことだろう。とうの昔に得た失望感は、永い熟成を経て、確かな発酵物となっているはずだ。私は宗教を持たないが、発酵物を心に置くじじいだ。
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by soranosanngo | 2012-01-26 11:53 | 散文詩 | Comments(0)