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1 やっかいなふるさと

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         ※イラストはりつ屋(娘)のオリジナルです。

 ケータイの着信音で目が覚めたルチアは、それが母親からのコールであることを確かめて舌うちした。今日は昼まで溶けるように眠っていようと思っていたからだった。
 どんなに自堕落な生活をしようと、それをとやかく言う人もいない気楽な一人暮らしだった。

 実家を離れてもう十二年もたつというのに、母親はほぼ毎日のように電話をしてくる。
 ほとんどの電話の内容が、ペンネみたいに空洞であるように感じていた。忙しい時にはその中身のなさにいらいらする事は一度や二度ではなかった。

 ある時
「ねえ、ママ、電話は用がある時にかけるものじゃない?」
と皮肉を込めて聞いたルチアに、こともなく母親はこう言い放った。
「用はあるわ。あなたの声を聴くという用がね。で、今度いつ帰ってくるの?」
 今年三十才になる、世間でいうところの、「いい」年の女であろうと、母親にとっては、いつまでもかわいい娘であるのだろう。それはもちろん愛情からであるとわかってはいるのだが、週末の休みごとに電話をかけてきて呼び出されてはたまったものではない。
 
今日は体調が悪いと言って断ろうと決め、ケータイを開く。いいでしょう、とルチアはひとりごちる。体調が悪いのは全くの嘘ではないし。かといって病気でもないことはわかっていた。

「もしもし」
「……ルー、ルー」

 近しい人はルチアの事を皆親しみを込めてルーと呼ぶ。
いつもは陽気なオペラに出てくる女主人公のような母親のソプラノは、今朝はまったくもって陰気だった。まるで長雨でしおれている向日葵みたいに。
 実際電話の向こうの母親は、泣いているようだった。

「ど、どうしたの、ママ」
「あのね、あのね、死んじゃったの」
「えっ誰が?」

 私は朝から晩までオリーブ畑で汗を流している無口な父のことが頭に浮かび、まさか、と思いながらも心臓がどきりとした。
 無口な男とおしゃべりな女は最高のカップルなのよ、というのが母親のかねてからのゆるぎない哲学であった。それを聞かされる度、今だ独身のルチアは納得せざるを得なかった。実際自らがそれを証明しているというのは、強い説得力があるものなのだ。

「ううっザッフィーロが、ザッフィが死んじゃったの」

 その言葉にまず、ほっと安堵した。そのあとに、胸の深い処にあった思い出が、柔らかな悲しみのようなものと一緒にやってきた。

 ザッフィーロ、青い眼の美しい白猫。

 一人っ子だったルチアにとってザッフィーロは時に弟、時に友人、寒い夜には寝床を温めてくれるヒーターでもあった。

「ザッフイー……」

 心の中で呼びかけたら、思わず鼻の奥がつうんとしてきた。

 彼はもともとルチアが学校帰りに拾ってきた仔猫だった。
 サファイアみたいな眼だから、ザッフィーロ。
 あの時確か十才だったから、ザッフィーロは二十才、猫としてはかなり長生きしたことになる。

「猫が二十才まで生きたんだから、大往生だよね」
「それはそうだけど、死は悲しいものよ。ねえ、今日これからザッフィにお別れを言いに来れない」

 かくしてルチアは実家のあるティレ二ア海に浮かぶ小さな島を目指すことになった。

 玄関で最近買ったばかりのマロノブラニクの華奢な6センチのヒールのサンダルを手に取る。
 ルチアはこのすばらしくロマンティックなサンダルを一目見て虜になり、オータムセールまで待てなくて正価で買ってしまったのだった。安月給の彼女にしてはそれは珍しいことであった。 人生の中で一目ぼれは数多くしてきたが(物だけじゃなしに)それを自分の手に入れたことはとても少なかった。
 しかし思い直して、白いスニーカーを履いた。
 彼女の実家の家は、長い階段を登ったこのうえなく見晴らしの良い所に建っているのだ。
 スニーカーを選んだ理由は実はもうひとつあるのだが。

 ルチアが住むローマのテルミニ駅からナポリ中央駅まで電車で一時間十五分。ルチアは電車にの乗るといつも不思議な感覚に囚われる。電車それ自体は時速150キロくらいの速い速度で移動しているのに、中に乗っている人々はその速さをほとんど体感することなくのんびりと過ごしている。
 そこだけ何かに守られた特別な空間のような気がしていた。外の世界で起きている出来事の全てを、人は自覚できるわけではない。むしろ、自覚できることのほうが少ないのではないだろうか、と。
 ナポリ港から島まで高速船で四十分の旅のほとんどを、まどろみながら過ごした。
 スリに用心して、鞄は常時ひざの上に置いてはいたが。
 ここ、数日はいくら寝ても寝たりない。ルチアは自分が溶けかかったいちじくになったような気がしていた。溶けかかって甘いいちじく。幼い頃、当たり前のようにあった甘い風景だった。

 時折目覚めて船の窓から外を眺めると、そこには見慣れた深い青をたたえた海が、やはり当たり前のようにあり、なぜかほっとする気がしたのだった。
 港ではカモメたちが、にぎやかに歌をうたって出迎えてくれた。
「あんたたちはいつも景気が良さそうね」
 実際のところは、港の周りの建物は、潮風にさび付いてもそのまま何年もほったらかしみたいだったし、産業といえば、漁業と農業、それに観光くらいのものだった。


 白い石灰岩でできた道は山なりに続き、角度が上がるに従い、次第に息が切れてくる。
 家の白い扉を開けると、すっかり泣きはらした赤い眼の母がルチアを出迎えた。
 母親は事細かにザッフィーロの最期の日を語った。時折、思い出したように涙声になったものの、大音響で鼻をかみ終える頃には、いつものソプラノに戻っていた。

「そう、最期はあのいちじくの木の根元で冷たくなっていたのね。死んだ鳥をくわえて」」
「そうなの、ザッフィーロは最期までハンターだったのよ」
誇らしそうな口調で母親はそう言った。

 そのいちじくの木は、ルチアが生まれる前からこの家の庭にある大木で、たわわに実った実が地面に落ちる度に、鳥がそれをついばみにくる。
 その鳥をザッフィーロは狩りの対象にしていたのだった。
 意気揚々と獲物を口にくわえて家の中に帰ってくるザッフィーロに、何度驚かされたことだろうかと、ルチアは懐かしく思い出していた。死後硬直が進んで剥製のように固くなったザッフィーロを、腕に抱きながら、きっと彼の魂は今も鳥を狙って自由にいちじくの木の周りを飛び跳ねているのかもしれないと思った。

 そうだったら、ほんとにいいのに。

「最期の獲物は雀に似た小鳥だったわ」
 いつもザッフィーロの習性を迷惑がっていた母親が、また誇らしげにそう言った。
「じゃ、その小鳥も一緒にいちじくの木の根元に埋めてあげない?」
ルチアは幼い頃飼っていた亀や金魚が死んでしまった度に、そうやって弔ってきたことを思い出した。そのファミリーに今日からザッフィーロも加わることになるだろう。

「そういえば、甘い匂いがするわね。もしかして、いちじくのジャム作っていた?」
「まあ、よくわかったわね。いっぱい作ったから明日帰る時持って帰ってね」

 いちじくは花が咲かないと思っている人が多い。実は果実の中で花を咲かせるので、それが見えないだけなのだが。そのせいか子孫が絶えると言って忌み嫌う人も多い。
 
 ルチアはねっとりとしたこの果実は小さい頃からあまり好きではなかった。しかし母親の作るいちじくジャムは幼い頃から、大好物だった。完熟したいちじくはグラニュー糖と少々多めのレモン果汁で味付けされる。
 煮沸消毒された清潔なビンの中に入れられたつややかなルビー色のジャムは、見ているだけでも幸せな気持ちになったものだった。

「ママ、いちじく、今年もたくさん実ってるね」
「来年も再来年もきっと実るわ。そういうものよ。命って」

 その時ルチアは、自分の腹に宿っている小さな命を産もうと、甘い香りに包まれてそう決意した。
 恋人のアントニーに、そのことを告げたらなんて言うだろう。

 結婚しようと言ってくれたら最高だけれど、もしそうならなくても産んで育ててみたいと無謀にも思うルチアだった。
 この島に戻ってきてここで子育てしながら暮らしてもいいなあ……と。
 甘いかな? でも甘いのが好きなのはママ譲りよ。

 そう言えば、アントニーは無口な男だわ! ママ。
                    

 20年も生きた青い眼の飼い猫が、死んでしまったという母親の知らせをうけて、ルチアは実家のあるこの島に帰ってきていた。
 父親が農園から戻るのを待って(こんな日もオリーブ畑に行く父親のことを母親は非難めいた口調でまったくねえ、と言ったがそれに対して父親は何も言わず頭を掻いただけだった)ザッフィーロの弔いをした。
 あらかじめ探しておいた墓石(マーブル模様が入った美しい石)と、青い花をつけたセージの枝を供えて。

 いちじくの木の根元に、ザッフィーロの最期の狩りの証である小鳥を一緒に埋めたのだった。理由はわからないのだが、ザッフィーロはねずみより小鳥が好きだった。青い眼の猫は年老いても尚狩りをするのをやめなかったのだ。
 背を低くして、小鳥に近づいていくザッフィーロを度々見かけたが、その都度、彼はやはりハンター、小さな豹だと思った。
 最期までハンターであり続けたその猫のことを、あっぱれといわざるを得ない。
 狙われる小鳥にとってはまったくもって迷惑この上ないことであったのだが。
 
 改めて庭を見渡すと庭はハーブの類か、いちじくをはじめ食べられる実のなる木がほとんだということにルチアは気づいた。花はもちろん美しいが、実はそれ以上に素晴らしいものかもしれないと思う。ここにはそういうものが溢れているのだ。

 柔らかな秋の日差しが夫婦と娘に降り注いでいた。

 
 その夜は母親の作ったシンプルなトマトスパゲッティと採れたてのルッコラのサラダを食べた。どちらにもバージンオリーブオイルをたっぷりとかけて。 もちろんルチアの家の自家製であった。
 普段はファーストフードや出来合いのもので食事を済ますルチアだった。そしてそのことに対して、全く抵抗はなかったのに、やはり手をかけて作られた食事は、たとえそれがこんな風に見慣れたものであっても、心を豊かにしてくれるものだと感じていた。まだ5センチ足らずのお腹に宿った小さな命にも、きっと手作りのものがいいに決まっているのだろう。
 考えてみたら、手はいろいろな幸せを生み出す素かもしれない。
 父親の手からは、オリーブの実が。それが遠いジャポネで見も知らない人々を幸せにしている。
 母親の手からはこうして日々の食事が。時々はボビンレースを紡いで作った白いテーブルクロスが。
 ルチアは自分の手を眺めてみる。
 私の手は誰かを幸せにすることが出来るのだろうか。
 左手の薬指にいつか指輪をはめる日が来るのだろうか。

「ここ何年かはジャポネの会社がうちと契約してくれてるんだ。結構いい値で買い取ってくれるんで助かるよ……」
 遠い日本ではイタリア料理が流行っていて、それに乗じてオリーブオイルがブームになっているそうだ。
 父親が唯一饒舌になるのは、農園のことを話す時だった。
 ネジを繰り返し巻いて同じメロディを繰り返しているオルゴールみたいだったが、それを母親はさも嬉しそうに聞く。時々ルチアにウインクしながら。
 夫婦って面白い。
 いくら綺麗なメロディでも、毎日聴いていたら飽きそうなものなのに。

 農園のこととなると主導権をにぎる父親がパスタを口に入れるのを見て、すかざず母親が口をはさむ。絶妙なパス。セッターとアタッカーはこうして時々役割を入れ替えるのだ。

「今は農園も順調だけど、私たちが結婚した当時に、なんとかっていうオリーブの実を腐らせてしまう病気が流行って、ことごとく全滅だった年があったのよ」
「えっそうなの?ママ。初めて聞いたわ、その話」
「金銭的にも苦しかったけど、初めて身もごった子を流産してしまってね。あんな悲しかったことはなかったの」
「ふうん、そんなことがあったのね。私に姉か兄が、もしかしたらいた、ってことね」
 流産。
 その言葉に少なからずルチアは衝撃を受けていた。
 なぜなら、自分の妊娠を知った時、心のどこかでそれを願ったからだ。

 アントニーはまだ学生だった。結婚してやっていけるのか、いやそれ以上に心配だったのが、アントニーの自分への愛情が果たしてそこまであるか、ということだった。

そんな風に思ったのはつい最近のことだった。

「悲しいっていうのは、もちろん、流産してしまったことでもあるんだけど……」
 
 母親の言葉はいつになくrit.(リタルダンド)になった。何か言いにくそうに。

「流産を知って、どこかほっとしてしまったの。貯金もない、あてにしていたオリーブも全滅、どうやって暮らしていこうか、という時だったから。そしてほっとした自分に愕然とした。このことはね、今でも日曜日ごとに教会で懺悔しているの」
母親の悲しみは30年以上もたっても、まるで昨日のことのように今も心にあるようだった。
「ママ、きっとその子は天使だったのよ。天使が生まれてくる前に親孝行しちゃったのよ」

 涙ぐむ母親にルチアはそう告げた。けれど自分のお腹に宿っている天使のことは言えなかった。
 ローマに帰ったらまず、恋人のアントニーに伝えよう。
 話はそれからだわ、ママ。

 翌日、朝食を食べてから、ルチアは高速船乗り場に向かった。本当は母親と出かけようとしていたのだったが、出がけに近くに住む母親の妹のマリアがやってきたのだ。
 マリアのおしゃべりは母親の上を行く。
「ルチア、帰ってたのね。まあ、すっかりきれいになって! ひとり? 誰かと一緒じゃないの?」
「いいえ、おばさま、一人よ。実はザッフィーロが……」
「知ってるわ。本当に残念だったわね。お悔やみ申し上げるわ」

 やっぱり、知っていた。この島の歩くスピーカーだわ。恐ろしいことにそんなスピーカーはこの島にはいくつもあるのだ。

「大変なのよ。昨晩ジョルジョじいさんがね、酔っ払って海に落ちて死んじゃったのよ」

 ジョルジョじいさんは小さな雑貨店をやっている赤ら顔の男だった。
 ルチアが小さい頃お使いにその店に行くと、昼間から酒の臭いをその身体から放っていたのを思い出す。
 アル中だったので、酔っ払って階段から落ちて怪我をして、頭を6針も縫った、だとか、酔っ払って飼い犬の尻尾を思い切り踏んで噛まれたとか、何にしてもジョルジョじいさんにまつわるニュースの頭には「酔っ払って」がついていたのだった。

「今度は本当に死んだの?」
 母親がマリアに懐疑的に聞いたのは、もっともなリアクションといえよう。

 ルチアはこうしていると午前中の高速船に間に合わなくなると思い、話の途中で一人、家を後にした。

 港近くのゆるやかに伸びる坂道で、後ろから自転車のベルの音と「ピイー」という指笛がしてルチアは振り返る。
「やっぱり僕のジェルソミーナ(ジャスミンの花)だ!」と言い、レオナルドが人なつこい笑みを浮かべて笑っていた。ルチアのことをジェルソミーナと恥ずかしげもなく呼ぶのはこの世で目の前にこの男だけだった。
 レオナルドはルチアの元カレ。この島で父親の後を継いで漁師をしている。去年結婚したのだが一年持たず、今はバツ1。

 二人は高校4年間で三度別れたり、くっついたりを繰り返していた。その理由の多くはレオナルドの浮気だった。
 ルチアがローマの大学へ行くためこの島を出てからそんな腐れ縁みたいなのにはピリオドがついたのだが。
「ひさしぶり。おまえんちの猫死んだんだってな」

 やはりこの島のスピーカーは侮れない。二人の別れた、くっついたということもきっと島人たちのスピーカーで流されていたことだろう。

 ルチアはそんなふるさとの狭さ、というか、人と人の近さというものが好きではなかった。元カノの家の猫が死のうが生きようがあんたに関係ないじゃないのさ、とつい言いたくなる。

 そうえいば、レオナルドもとびきりのおしゃべりだったっけ。あの頃胸をときめかせていた細面の顔にはすっかり肉がついて、おまけにひげまでついている。ああ。


「ちょっと港まで送っていってよ」
 自転車のかごに鞄を押し込みルチアは荷台に座る。
「おばさんの話が長くて。急いでくれる?」
 レオナルドの背中もあの頃より一回り大きくなったようだ。腕を回してレオナルドの腰に手を回す。何のどきどき感もないと思った。
「おまえ、胸が大きくなったんじゃねえ?」
 ルチアはばしりと背中をたたく。
「危ねえなあ」

 船の出港には自転車のおかげで間に合った。
「はいよ」鞄を渡すレオナルド。なんだかんだ言っても、優しい男だった。
「間に合っちゃったね」
「何それ、残念そうね」
「いや、間に合わなかったら、昼飯でも一緒にどうかな、って」
「デートに誘ってるつもり?」
 ルチアは、「4度目はないよ」と言おうとしたが、止めて「チャオ。送ってくれてありがとう」と言って別れた。
レオナルドは、どこがどうというわけではないが、元カノが綺麗になった気がして、まぶしそうに手を振った。
 
 堤防からはいつまでもレオナルドが大きく手を振ってるのが見えた。
 まるで永遠の別れを惜しむ恋人みたいに。それは滑稽なようで、やっかいなことに、美しい姿だと思った。
 だから、ふるさとってやっかいなのよ、ルチアはそうつぶやいた。
# by soranosanngo | 2012-05-03 17:09 | HIKARU果実【ルチアの物語】 | Comments(2)